近代の哲学まとめ3(自然科学と形而上学) - 趣味で学問

近代の哲学まとめ3(自然科学と形而上学)

近代の哲学のまとめ最後です。近代形而上学は自然科学の基盤となっています。これは当時の勃興当初の自然科学だけでなく、現在の自然科学でも同様です。とはいえ単純にその時代の形而上学が同時代の自然科学に基盤を与えたわけではありません。最も自然科学に影響を与えたであろうデカルトから、自然科学と形而上学の関係を見てみようと思います。

1.自然科学

まずは自然科学とは何かを考えてみましょう。普段何気に使っている言葉の方が定義が難しくて、「自然科学」もそんな言葉の一つです。

自然科学および関連分野で一般に考えられている定義は、量的な関係式で事態を表現可能なことでしょうか。他には反証可能性(自らが間違っていることも論証可能なこと)が哲学分野ではよく挙げられます。これは自らを否定しながら真理に近づいていくという考え方につながるので、広義の「近代」の中に含まれるでしょう。

自然科学を代表するのは物理学であることに疑いはありません。特に近代らしい時代ともいえる19世紀中葉は、まさに多様な物理学分野が花開き、物理学を超えてその数学的手法が導入されていった時代です。やはりまずは量的な自然科学の視点で近代形而上学との関係を見てみるべきでしょう。

2.デカルト

物質的自然観、もしくは機械論的自然観は自然をもっぱら物質的に、そして物質をもっぱら量的関係に即してみる立場です。しかし自然現象と数学的諸観念を結びつけられることは自明なことではなくて、いわゆる自然科学の「存在論的基礎づけ」を行ったのがデカルトです。あらゆる対象の特殊な質料にしばられずに、その形式、つまり順序と量的関係だけにかかわる学問を考えることができると彼は考えました。

デカルトの自然界の量的諸性質を数学的諸概念で記述しようとする試みは、精神と物質とを区別する、彼の形而上学がもとづけになっています。近代哲学はその後、「超越論的主観」の方向と、「客観的世界のもつ合理的構造をどこまでも明らかにしてゆこうとする方向」に別れ、後者はニュートンを代表とする近代の数学的自然科学が引き受けます。

3.イギリス経験論からカントまで

ロックの発想の一つに、デカルトの考えを引き継ぐ「第一性質」と「第二性質」の区別があります。ロックは延長に属するとみなせるような性質が実在に対応する性質だと考え、それを第一性質と呼んでいます。第一性質と第二性質の区別のように、延長に属する性質が実在に対応する性質だとすることが数量的自然科学には必要に思えます。ニュートンの友人でその裏付けとなる理論の構築といった意図もロックにはあったようなので、ロックの一連の考え方が数量的自然科学と整合性が大きいのは当然かもしれません。ニュートンの微分も時間や空間のような抽象観念が抽出されてはじめて可能になるものであるでしょう。

そうすると微分を同時期に考えたライプニッツも、イギリス経験論と基盤を共有しているのでしょうか。モナドロジーに見られるように境界の思考を含むライプニッツの思想は、デカルトやイギリス経験論を踏まえながらも異なる性質を持つように思えます。微分はモナドにおける世界の表出と関係がありそうなこと、絶対時間と絶対空間を否定したことなど、数量的自然科学と数学の関係についてライプニッツを除くことはできないように思えますが、これは私には負えないテーマなのでここまでとします。

次にカントですが、カントは数学的合理性の基付けを行おうとしているので、数量的自然科学との直接的な関係は薄いようです。

4.生命論的思想

カントの後継者であるカント観念論と呼ばれる哲学者たちのうち、ヘーゲルの同一性と差異の思考は生成や運動の側面を含むもので、むしろ生命論との対応の方が強いかもしれません。シェリング、マルクス、ニーチェに至るまで、生成運動する自然を取り戻そうという視点があり、数量的自然科学とは別の方向と考えた方がよさそうです。19世紀中ごろが一番西洋形而上学が科学技術と結びついて猛威を奮った時代のはずですが、時代の最先端をいった彼らの思想は、自然科学の基盤となったわけではないようです。自然科学や心理学(当時その名称があったのかわからないですが)などの分野が、それまでの形而上学やそれと深く結びついた自然科学的手法を取り入れた、というのが実情みたいです。

5.イデア論としての自然科学

一応は自然科学系の学部を出た身として、実は自然科学もイデア論なのでは?と思うことがあります。たとえば「エネルギー」は自然科学だけでなく、一般にこの概念なしに現代のあらゆる問題を考えることができないものです。しかし運動エネルギーがmv2/2として質量と速度で表現されているように、エネルギーそのものを計測できるわけではありません。よく言われる「エントロピーそのものは測ることができない」のと同様です。そうだとするとあらゆる現象の間で相互に変換されることで、体系として織りなされる自然を理解可能とする、超越論的原理としてのエネルギーを措定していると言えないでしょうか。それはまさに「イデア」、「純粋形相」そのものです。自然科学は基盤として形而上学を必要としたというよりも、むしろ形而上学の正統継承者なのかもしれません。

  • 参照文献1:木田元『反哲学史』(講談社学術文庫)
  • 参照文献2:熊野純彦『西洋哲学史 近代から現代へ』(岩波書店)

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むつきさっち

物理と数学が苦手な工学博士。 機械翻訳で博士を取ったので一応人工知能研究者。研究過程で蒐集した知識をまとめていきます。紹介するのはたぶんほとんど文系分野。 でも物理と数学も入門を書く予定。いつの日か。

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