1.ヴァイツゼッカーにおける「主体」
ヴァイツゼッカーの考える「主体」とは、有機体が環世界との相即(環世界との接触を保ち続けるはたらき)を成すその瞬間が、当の有機体の側から感じ取られることでした。相即は有機体と環境との境界を有機体そのものが区切ることで成されるので、むしろ主体とは生命それ自身とそうでないものとの境界を区別することそのものです。ヴァイツゼッカーの考える主体は人間に限らず有機体にまで拡張されているわけですが、このような主体をもとに、もう一度人間の主体を振り返えることができます。
2.主体的身体
人間には他の生物種には見られない特殊人間的な自己意識が存在します。私はいつもほかならぬこの私であるということ、このことが人間固有の自己意識とみなされています。この人間の自己意識は「一回性」、「唯一性」といった特徴を伴っていますが、それは共有不能なその個人の「歴史」によって裏付けられています。人間における表象作用は、過去と未来を現在の中に取り込み一つの時間の流れとなって、特殊人間的な自己意識のもととなる、個人の歴史を形作っています。
これに対し生物一般では、その主体性は個別主体的な志向性と集団主体的な志向性の複合のみによって構成されているとみなすことができます。もちろん過去の経験が個体の行動に影響を及ぼすでしょうが、人間の「歴史」のようなものを構成することはないと思われます。人間の場合では、歴史的個別性が圧倒的に重要な意味を持つので、生物一般に見られる二つの志向性は潜在的なレベルに留まり、意識に登ることはまれです。しかし身体的現実においては、他の生物と同様の主体性が、共通して根幹をなしているでしょう。心身相関の問題を理解するには、人間特殊的な相関のみならず、われわれの身体にも備わる主体性に目を向けなくてはなりません。
3.人間個人にとっての生と死
人間における「生」と「死」も、はたらきとしての「主体」から考える必要があります。「生きている」ということは、何か対象化可能なものではなく、今まさにはたらき続けていることとしてあります。「死」とは生きているというはたらきからの断絶であり、一人称的には感知することができません。そのため死は本来、三人称的なリアリティとしてしか体験することはできないのですが、親密な人の死を通して、その死にゆく人と主観を共有することにおいて、一人称的に死を感じ取ることができます。
4.参照文献
- 参照文献:木村敏『からだ・こころ・生命』(講談社学術文庫) 書評と要約

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