生成する自然(後期シェリング) - 趣味で学問

生成する自然(後期シェリング)

ヘーゲルの死後、近代形而上学への批判が高まる時代が到来します。ヘーゲルにしてもヘーゲルの近代形而上学を批判する思想にしても、彼らの生きた時代背景と無関係ではなかったようです。木田元によると、後期シェリングからマルクス、ニーチェまで、彼らの思想は近代理性主義、プラトン以来の形而上学的思考様式への批判を本質として含むのではないか、とのことです。ヘーゲルに隠れて忘れ去られた状態だったシェリングが、半ば時代の要請から、もう一度ヘーゲル没後に返り咲くことになります。

1.理性主義批判の時代

近代形而上学を完成させたともいえるヘーゲルの晩年にはすでに、近代ヨーロッパ文化そのものへの反省が時代の背景として始まっていました。フランス革命に当初は「自由」と「平等」が期待されたのですが、結局、「人間を非人間化しつつあった資本主義的経済体制の担い手であるブルジョワジーが政治的主導権を奪取する機会にすぎなかったということ」(木田元『反哲学史』第十章)が明らかになります。またフランス革命の反動から旧制度(アンシャン・レジーム)が復活され、現実が決して理性的でないことが実感されつつありました。そういった時代背景もあって、1830年代以降はヘーゲルに代表される理性主義の哲学への批判が、さまざまな角度から展開されることになります。

2.積極哲学と消極哲学

シェリングによると近代の理性主義的哲学は、理性によって性質(本質)として認識される事物の「本質存在(エッセンティア)」だけを問題にし、すでにあるという事物の「事実存在(エクシステンティア)」には眼をそむけています。しかし実際には、人間理性では理解できないような悪や悲惨な事実が現実世界にあふれています。デカルトは理性で捉えられるものだけが存在するとして、非合理な事実存在を無視しようとし、ヘーゲルは「現実的なもの」=「理性的なもの」とみなして、やはり非合理な現実は無視しようとしました。シェリングはそのような理性主義の哲学を「消極(ネガティブ)哲学」と呼び、それとは反して非合理な現実という事実をあえて問う自分の哲学を、「積極(ポジティブ)哲学」呼びました。この積極(ポジティブ)という言葉には二重の意味が込められています。

木田によると、英語のpositiveという形容詞には、二系列の意味があるそうです。①肯定的(否定的)、積極的(消極的)といった言葉で対として訳されるような意味と、②事実的、実証的、実定的といった言葉に訳される意味です。①の方の意味の由来は簡単ですが、②の意味の由来は複雑です。こちらのもとになったのは、神によって創造され定められた「事実」であるpositumです。キリスト教では神によって世界が造られたと考えられているわけですが、世界には悲惨な出来事が起こったりして、このことをどう理解してよいのかわからなくなります。このことについて、次のように考えることができます。

どれほど人間の理性には理解しがたいことであろうと、やはり神がponoした(定めた)ことなので、神にはそれなりの意図があったにちがいない。そもそも人間の理性で神の意図を推し量ることなどできるわけなく、神によって定められたpositum(事実)として受け容れるべきだ、というふうにです。

上記のような議論の流れからpositumという言葉が使われはじめ、人間の理性では決して受け入れられないが、現実として認めるしかないような事実を意味するようになりました。そのうちそういった宗教的意味は忘れ去られ、positive=事実的という意味だけが残りました。シェリングはこちらの(人間理性では受け入れがたい)「事実」の意味と「積極的」という意味の両方をpositiveにこめて使用していることになります。

3.生成する自然

シェリングは合理的な事物の本質存在は神に由来するが、非合理な事実存在は神よりももっと根源的な神の根底に由来すると考えています。ここでいう神は理性と言い換えてもよく、彼は神の根底を「神の内なる自然」(Natur in Gott ナトゥーァ・イン・ゴット)と呼んでいます。「彼は神を光、神の内なる自然を闇に喩え(中略)、それ自体では混沌である自然がおのれのうちから神(理性)を発現させ、それによっておのれを照らし出させるのだとシェリングは考えているようです。」(木田元『反哲学史』第十章)。

彼による神の内なる自然とは、生きて生成、生動する自然のことです。そして彼のいう「人間的自由」というのは、いわゆる自由意志のようなものではなく、生きた自然が生動するその「生」が人間において現れてくる姿のことです。シェリングは生きた自然を復権することで、近代の物質的自然観、つまり近代形而上学を克服しようと試みていたと考えることができます。

4.実存主義へ

現実の非合理性を説くシェリングの後期哲学は、若い世代の共感を呼ぶようになります。その背景には自由民主化を求めた運動への弾圧といった、非合理な現実に彼らが直面していたという事情があります。1841年のベルリン大学哲学科主任教授への就任講義には、エンゲルス、バクーニン、キルケゴールらが出席していました。当初は彼らに熱烈に支持されたのですが、シェリングの思想がどこまでも神学的神話学的思弁のかたちでしか展開されないことに幻滅して、彼らはシェリングのもとから去っていきました。

ただし、そのうちでキルケゴールはその講義から「実存(エクシステンツ)」という概念を学び、独自の思索を深めていきます。彼により実存の問題はシェリングのものよりスケールが小さくなるのですが、逆にそれだけ先鋭化されて、20世紀の実存哲学や実存主義に受け継がれることになります。

参照文献:木田元『反哲学史』(講談社学術文庫)

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むつきさっち

物理と数学が苦手な工学博士。 機械翻訳で博士を取ったので一応人工知能研究者。研究過程で蒐集した知識をまとめていきます。紹介するのはたぶんほとんど文系分野。 でも物理と数学も入門を書く予定。いつの日か。

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