イデアへの反抗 - 近代 - 趣味で学問

イデアへの反抗

イギリス経験論といえば、まず挙げられるのはロック、バークリー、ヒュームの三人です。ただしバークリーには「存在するとは知覚されることである」という有名な神学的な言い回しがあって、この三人をイギリス経験論の名で一括りにするには、そこからはみ出すものが多すぎるようにも思えます。バークリーはロックやその友人であったニュートンへの批判を行っているので、そこから彼の神学的思考への筋道をたどれるか見てみたいと思います。

1.ニュートンに対する批判

ニュートンは絶対的な時間の流れがあると考えたようです。世界については、世界そのものはそれとしてあり、経験によって(本当は生理学的知覚認識装置の助けも借りて)そのように知覚するようになる、と言って違和感はないです。一方、時間とか空間なるものがそれとしてある、と自明のことのように言うことはできないでしょう。バークリーは時間という概念に対し、「私たちのこころのうちにある観念の継起から抽象されてしまうなら、なにものでもない(nothing)のである」(熊野純彦『西洋哲学史 近代から現代へ』第5章)と言っており、確かに我々の世界を認識するはたらきと無関係に存在するものではないように思えます。

バークリーは微分法も批判しています。無限小の概念の導入は必要ですが、我々も微分の考え方をそれほど違和感なく使っています。ところで加速度は距離の二回微分でした。二回微分、つまり微分の微分が定義できるなら、三次、四次等の微分も定義できるはずだけど、そうするともはや人間の理解できる量でなくなってしまいます。バークリーも次のように考えています。

「モーメント、あるいは生まれでる状態(status mascendi)における流量の増分を、そのまさに起源、それが存在するはじまりにおいて、それらが有限な量になるまえに理解することはひどく困難である。そのような、生まれでようとする不完全な存在者について、その抽象的な速度を考えることは、なおさらに困難であるように思われる。しかも、諸速度の諸速度、第二次、第三次、第四次、第五次等々の速度は、私が思いあやまっていないなら、いっさいの人間知性を超えている。」(同上)

2.経験論批判

2.1 視覚と触覚

バークリーの著書で有名なものに『視覚新論』があります。この著書のねらいは視覚と触覚の違いを明らかにすることです。視覚は網膜像が元になっているので、距離そのものを見ることができないのは確かです。視覚の対象は遠かろうと近かろうと、同じように網膜上に像を結びます。我々はこれまでの生活から、身体や対象の移動による像の大きさの変化という経験を積んでいます。そのことから視覚においても触覚と同様な距離の感覚が成立する、と言ってよいでしょうか。バークリーは、距離は固有には触覚にぞくしていて、触覚による空間と視覚による空間がおなじである保障は、経験それ自体のなかには存在しない、と考えているようです。

バークリーもモリヌークス問題を取り上げています。バークリーの予想は、延長は触覚によるものなので、生まれつき目の見えない人が開眼手術を受けても、視覚から距離や延長を読み取ることはできず、球と立体の視覚による区別はつかない、というものです。バークリーの予想は当たりで、次のように述べられています。

「かれが触知する対象が皮膚に触れるのとおなじように、(かれの表現によれば)すべての視覚的対象が眼に直接触れてくるかに思えた。[中略]かれにはどのようなもののかたちも判らなかったし、どれほどにかたちや大きさがことなっていても、たがいに識別することができなかった。けれども、その事物がなんであるのかを聞かされ、しかもそのかたちを以前に触覚によって知っていた事物であるときには、かれはそれをふたたび[眼によって]知ろうと注意ぶかく観察しはじめた。[中略]すべての対象が新しい喜びであり、あまりにうれしくて表現できないくらいだと、かれは語っていた。」(同上)

モリヌークス問題に対する考え方からは、デカルトのような先天的な理性の所有に対する批判が読み取れます。しかし、視覚における距離感覚を経験によると考えたのかそうでないのか、そこまではわかりません。

2.2 第一性質と第二性質の区別への批判

バークリーはロックの第一性質と第二性質の区別を批判しています。経験論的に考える限り、物体そのものの観念は与えられないのではないか、というものです。ロックの第一性質は、個体性、延長、かたちとかの、延長にかかわる性質のことで、第二性質が、色とか音とか香りとかでした。どちらの性質も、経験で得られるもの以上の抽象化されたものを含みます。個別的経験に密着するように見える第二性質も、経験で得られるのはその対象とのその色や香りとの結びつきであり、あらゆる対象が持ちうる「色」や「音」や「香り」なるものが経験されるわけではありません。これらの抽象化された性質が経験論的に得られるものではないのは、確かに思えます。

2.3 抽象観念への批判

バークリーはロックの抽象観念も批判しています。知覚による像はそれぞれ具体的で、例えば「速くも遅くもなく、直線的でも曲線的でもない、運動一般の観念」はありえないように思えます。具象的な知覚から、一般として抽象された抽象観念が成立することは自明なことではなく、そこに介在しているのが言葉の機能だというのが、バークリーの意見です。

3.バークリーの自然観と神学

イギリス経験論としてロックとヒュームの間をつなぐように紹介されることの多いバークリーですが、イデア的な合理主義への批判者であって経験論者ではないようにも思えます。我々の持つ観念が、先天的な理性でも経験的に得られた必然性でもないとすれば、バークリーはどのように多くの人に共通する観念が存在することを説明しようとしているのでしょうか。

バークリーの『視覚新論』は、バークリーの宗教論を展開するための補助的な著書という位置づけで書かれたものです。そしてバークリーのロック批判も、彼の神学的立場からの批判を含みます。そこで敬虔な聖職者であったバークリーの神学的な意見を見てみることにします。

バークリーは、物質は観念に与えられるものとしては存在しないと考えています。では物質が「存在する」とはどういうことでしょうか。バークリーの答えは有名で、「存在するとは、知覚されていること」です。では今誰も見ていない庭の樹は存在しないのか、と聞かれることになるでしょう。神の実在を信じて疑わなかったであろう彼の答えは決まっています。無限の神がすべてのものを見続けているので、たとえ見ている人が誰もいなくても、神が見ているので存在することになります。

バークリーの自然観と神学をつなぐことは、残念ながら私の能力を超えるので、ここでこれ以上書けることはありません。少なくとも、神学的な思考を紡ぐことは自然科学と矛盾しないこと、神学は必ずしもイデア論的理性主義でなくともよいことを、彼の議論は示してくれています。

参照文献:熊野純彦『西洋哲学史 近代から現代へ』(岩波書店)

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むつきさっち

物理と数学が苦手な工学博士。 機械翻訳で博士を取ったので一応人工知能研究者。研究過程で蒐集した知識をまとめていきます。紹介するのはたぶんほとんど文系分野。 でも物理と数学も入門を書く予定。いつの日か。

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