木村敏『からだ・こころ・生命』書評と要約 - 趣味で学問

木村敏『からだ・こころ・生命』書評と要約

評価:

臨床精神科医である木村敏の講演をもとにした本です。精神医学の本というよりは生命論の趣が強いですが、終盤では患者の死に対しどのように医師として接するかが主題になっています。この本の初版は2015年ですが、講演が行われたのは1996年です。著書刊行まで20年近く経っていますが、この間に木村の考え方はほとんど変わっていないそうです。

木村の影響を受けた人としてヴィンスヴァンガー、クローンフェルト、ヴァイツゼッカーが挙げられています。この本ではそのうちのヴァイツゼッカーについて取り上げられています。特に「相即」の概念をもとに、生命と環境の境界についての思索が、終盤の「死」の議論においても、通底して流れています。講演をもとに書きおこされたものなので、一般大衆向けの平易な文体で書かれています。木村の生命論を理解する入門書的な役割が期待できます。

ここからは私にとってこの本がどういう本だったか書きます。読み返してみて気づいたのですが、どうも私は木村の文体が合わないらしく、流して読む分には問題ないのですが、読んだ気になってあまり理解できてない、ということがわかりました。ブログの方で、苦労しながら節ごとにメモまたは要約を書いていったのですが、全体の要約がそれをもとにしても上手くまとまりません。やっぱり講演ということもあって、通常の著書に比べ、重複が多いとか話が飛びがちだったりして、平易な文体で読みやすいかわりに、全体を俯瞰するのが難しくなっているみたいです。そんなわけで、私にとって全体として理解することが難しかったため、評価は3と少し低めになってます。

下に要約を載せます。ただしけっこうな部分を、自分の文体に変換して書いてます。

1.要約

医学には心身相関という難問があります。心的経験は脳というハード機構に回収しきれない剰余を持つためです。古くは心身二元論、20世紀に入っては現象学による間主観性および間身体性の概念が提示されていますが、それら一般に知られる考え方と異なる主体概念が、ドイツの医師ヴァイツゼッカーにより提示されています。

生きものはその生存を保持するために、知覚と運動の両面を動員して環境世界との接触を保っています。生命においては、その境界にあたるものは何かということ自体が、一つの難問です。生命の境界が難問として現れるのは、生命がみずからの働きで、境界そのものを生み出しているためです。「主体」とは、生命と環境の境界を自ら区切り、境界での接触を維持しようとするその働きそのものとしてある、とみなすことができます。

人間における「生」と「死」も、はたらきとしての「主体」から考える必要があります。「生きている」ということは、対象化可能なリアリティとしてではなく、今まさにはたらき続けているアクチュアリティとしてあります。生きているというアクチュアリティからの断絶である、「死」というアクチュアリティは、一人称的には感知することができません。死は本来、三人称的なリアリティとしてしか体験することはできないのですが、親密な人の死を通して現れる、「われわれ」の場面での二人称的なアクチュアルな死を通して、一人称的なアクチュアルな死を感じ取ることができます。「それは患者との出会い、患者との境界そのものを自分自身の主体として生きることと同義でありますし、患者との関係を患者の主体として扱うこととも同義なのです。」このようにして患者の生と死を、医師が自分自身のアクチュアリティとして生きるとき、「医学への主体の導入」がなされたみなせるでしょう。

2.追記

それからもう一つ言っておきたいことがあって、木村の考えていることがオートポイエーシスとよく似ています。そのことは著書の中でも木村自身によって言及されています。オートポイエーシスそのものについては少しの記述なのですが、この本をオートポイエーシス論の入門書的に読むことも可能と思われます。下手をすると、河本英夫や山下和也の入門書よりも、理解しやすいかもしれません。

下はamazonアフィリエイト広告です。

からだ・こころ・生命 (講談社学術文庫 2324)

新品価格
¥660から
(2024/11/3 04:22時点)

<< 佐々木正人『アフォーダンス入門』書評と要約 宇野重規『民主主義とは何か』書評と要約 >>

<< 書評トップページ

むつきさっち

物理と数学が苦手な工学博士。 機械翻訳で博士を取ったので一応人工知能研究者。研究過程で蒐集した知識をまとめていきます。紹介するのはたぶんほとんど文系分野。 でも物理と数学も入門を書く予定。いつの日か。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA