稲葉振一郎『経済学という教養』書評と要約
評価:
稲葉振一郎の「素人の、素人による、素人のための経済学入門」、『経済学という教養』の書評です。結論を先に言うとこの本、全然素人向けじゃないです。ただし公共性の議論で忘れ去られがちな経済的側面を考慮して書かれた、社会学の良書です。全体を通して話の流れが読み取りづらかったりして、さすがに経済学素人が読むのはつらいです。私は経済学関連の本は10冊近く読んでるので、ずぶの素人とまではいかないのですよね。他の本で読んだ知識使って何とか理解できたけど、経済学の知識ゼロではたぶんよくわからないと思います。
そんな決して読みやすくなく意図に反して素人向けでない本書ですが、この本でしか展開されていないであろう重要な議論が山盛りなので、評価は3.5です。こういう多分野にまたがる仕事は、社会学者や哲学者じゃないと書けないんじゃないでしょうか。
私が読んだのは増補版ではなく最初に出たハードカバーの方なので、増補部分は要約に入ってないです。もし増補版を読むことがあったら、後で要約に付け足そうと思います。
全8章構成で、各章の要約を下に示します。
各章の要約
第一章 こういう人は、この本を読んでください
この本は「素人の、素人による、素人のための経済学入門」を目指して書かれています。こういう本を出したのは、「玄人による、素人のための」本に欠けている何かを提供したい、という動機からです。またこの本は「経済学入門」であって「経済入門」ではありません。もちろん経済学は経済を理解するためのものでもあるのですが。
第二章 出発点としての「不平等化」問題
経済学に入る前に、不平等と経済学の関係について考えてみます。日本でも80年代くらいから、階級社会化の傾向が強まってきました。階級社会といっても、「階級ごとに自立した別々の社会」ができるわけではなくて、経済的には一つの社会として階級間で関わりあうことになります。ここでいう不平等というのは、世代から世代へと受け継がれていく、かなり長い時間における格差の再生産のことです。不況と不平等の拡大の関係など、現代の主要問題とその対処法の是非を判断するには、経済学が必要となります。
第三章 素人の、素人による、素人のための、経済学入門
物価全般が下落する現象をデフレーション、略してデフレと呼びます。価格全般と関係する基準点は、賃金または貨幣として考えられています。この基準点を賃金とするグループでは、賃金(労働の価格)の下方硬直性により、労働力市場の調整機能が働かないため、失業が解消しないと考えられています。貨幣を基準点と考える立場では、物価の下落は貨幣に対する下落で、貨幣の交換価値それ自体を欲する「流動性選好」により、均衡状態が最適の状態からずれているためにデフレが続くと考えられています。経済学派は古典的ミクロ経済学、上の前者に当たる「賃金・価格調整」説派、後者の「流動性選好」説派の三つに分けることができます。この本では「賃金・価格調整」説派を実物的ケインジアン、「流動性選好」説派を貨幣的ケインジアンと呼ぶことにします。
第四章 日本経済論の隘路
2004年当時では小泉内閣の「構造改革」の是非が問題となっていました。構造改革主義者は概ね実物的ケインジアンにあたり、彼らの考え方は次のようなものです。
19世紀末以降、軽工業から重化学工業へ移行して、企業の官僚的組織の発達、長期雇用と福利厚生の充実、資本市場や巨大な資金力を持つ銀行への依存の高まり等を経て、大企業主導の産業構造が市場の調整能力を弱めた。日本型経済システムはそのような大企業による製造業型の産業構造に適しており、また戦後日本経済の課題が「追いつき(キャッチアップ)型工業化」であったことから、政府による産業政策が機能し80年代からの経済発展の原動力となった。しかしキャッチアップ終了後、さらに「ハイテク」の産業構造に変わったことにより、かつての方法に固執した日本企業も政府も現代には不適切な方法を取り続けている。これが不況の原因だ。
第五章 左翼のはまった罠
マルクス主義者は実物的ケインジアンの立場であり、ケインズ政策を消極的にしか支援しません。そして実物的ケインジアンどうし構造改革主義者と考え方はさして変わりません。両者ともモラリズムに陥ってしまったため、「問題は一般的なルール自体、原理原則のほうにあるかもしれない」という視野がとれなくなってしまいました。現代に続く日本の不況の原因を一言で言い表すのは難しいですが、構造改革主義者の考え方には妥当な部分が多く含まれるのは確かです。ただしマクロ的需要不足という考え方をまったく含んでいないので、方法論としては構造改革主義者に同意することはできません。
第六章 市場経済と公益
これまで実物的ケインジアンの立場で考えてきたので、今度は貨幣的ケインジアンの立場から不況とそれに関連する問題を考えてみます。実物的ケインジアンの立場ではパレート最適な状態が達成可能なことを前提としていますが、貨幣的ケインジアンの立場からすると、ケインズ的不況では「弱肉強食」「ゼロサムないしマイナスサムゲーム」となってしまうので、パレート最適の状態ではありません。市場原理の価値は、「自由」「規律」といった面からも考えることができますが、「幸福」「安全」をないがしろにして追及されるべきではありません。不況では「弱肉強食」のような不平等の状態に陥ってしまうので、市場原理の追求は無条件に許容されるべきではありません。
第七章 マルクス経済学への最初にして最後の一歩
マルクスは「商品がただのモノではなく「商品」であるのは社会関係の中に置かれているからだ」ということについて深く考えた人です。ケインズとマルクスには共通する洞察があるはずですが、マルクスの貨幣観を継いでなおかつケインズと接続するような試みは、残念ながらまだ不十分です。
マルクスは「労働」と「労働力」の区別をつけ、労働力という商品とその対価である賃金の関係から、資本家による搾取を描き出しています。またマルクス理論は歴史理論でもあり史的唯物論と呼ばれています。20世紀は、市場経済の論理=資本の論理が労働と消費生活の内容までも変えていった時代だと言えます。マルクス主義の問題点としては金本位制への固執、マルクスの問題点としては共産主義の具体的な形を描かなかったことが挙げられます。マルクスは資本主義経済を経由したことで、かつての調和と資本主義時代での個人の自由、双方が達成された理想の世界が共産主義社会として訪れると期待していました。しかし具体的な運営方法まで考えていたわけではないので、ある意味で必然的に、実在した社会主義国は運営に失敗することになります。失敗の理由の一つとして、計画経済では民主主義的意思決定との関係を保つことが難しい点が挙げられます。
第八章 経済学と公共性
公共財とは「排除不可能性」(みんなが使える)と「非競合性」(利用したいときに使える)が共に成立しているものです。公共財についてはその性質から、不平等自体を問題として問うことができます。「景気」を市場経済に「内部化」できない公共財と考えることができます。景気や不況のような個別的主体でどうにもならなさそうなテーマは、基本的には公共政策の問題と考えられます。もしミクロ的な経済主体である普通の市民が無力な状態に追い込まれているのだとすれば、確かにそれは「公共性の喪失」の状態であると考えられます。貨幣的ケインジアンの立場に立てば、個別の経済的主体にもケインズ政策への関与が可能、という考え方が出てきます。労働組合に注目すると、日本中の労働組合が一企業を超えて、「マクロ的労使協調」として機能することができれば、労働組合の賃上げ運動による購買力の増加、つまり需要の増加により、結果として物価の上昇につながっていくと期待できます。「責任問題」まで考えると基本は政府にケインズ政策をゆだねるべきですが、実力ベースで考えるのであれば、労働組合のような自然発生的な経済主体にある程度「草の根ケインズ政策」を任せてもよいとも思われます。
公共性への回路を考えるとき、個別の主体が「教養」としての経済学を持つことは必要と考えられます。
追記
上の要約を見ると、やっぱり各章のつながりがわかりづらいですね。とりあえず稲葉の主題は経済というよりも公共性にあることがわかります。不況の原因として、個人の心理的過程であると同時に社会全体の傾向でもある「流動性選好」を重視する点で、やはり社会学者による経済学批判だと言えます。マルクスとケインズをつなぐ仕事を、稲葉自身がこの本でもっとやりたかったのかもしれません。それは果たされなかったわけですが、少なくともその困難かつ魅力的な理論を考えるにおいて、とっかかりとなってくれそうな本ではあると言えるでしょう。
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