熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』書評と要約
評価:
西洋哲学って、素人にはハードルが高すぎて、何から読めばよいかさえよくわかりません。何度も撃沈を繰り返した人間として、最初に読んでみるのにおすすめする本の一つがこの本です。まえがきにある、「この本で気を付けて書かれたこと」を抜き出してみます。
- それぞれの哲学者の思考がおそらくはそこから出発した経験のかたちを、現在の私たちにも追体験可能なしかたで再構成すること
- ただたんに思考の結果だけをならべるのを避けて、哲学者の思考の筋道をできるだけ論理的に跡付けること
- 個々の哲学者自身のテクストあるいは資料となるテクストを、なるべくきちんと引用しておくこと
西洋哲学史上巻にあたるこの本は、確かに上の三つの指標を満たしていると思います。2番目の「思考の道筋を論理的に跡付けること」だけなら、木田元の著作がよいでしょう。でも哲学って、その文体とかがそのまま思想でもあったりして、テクストや背景抜きに思想を示すことが難しいのも確かです。哲学を読む動機には、そういったテクストに直に触れたいということも、含まれているのではないでしょうか。そんな人には、木田元よりもまずこちらの本をお勧めします。
ただ注意点を一つ。「サルでもわかる」とか、そんな感じの哲学入門書よりよっぽどわかりやすい本ですが、わからないところは何度読み返してもわかりません。丁寧に読めば全然わからないなんてことは起こらないのだけれど、哲学の専門書である限り、誰でもわかるなんてことはやはりありえないです。
1.各章ごとのまとめ
全15章で構成されています。各章ごとにおおまかな内容をまとめておきます。なお、自分の関心のない部分は完全に省略しているので、その点はご了承ください。
第1章 哲学の始原へ
ミレトスの哲学者からはじまっていて、移ろい行く自然や生命が、思索の源となっています。移ろい行くことそのものを可能にするそれ自体は変わらないもの、世界のはじまり(アルケー)が必要だと彼らは考えました。それをタレスなら「水」と、アナクシマンドロスなら「アペイロン(無限なもの)」と考えました。
第2章 ハルモニアへ
秩序(コスモス)と調和(ハルモニア)の哲学者たちが続きます。ピタゴラスは、見えるものの背後に、それを可能にする見えない秩序を見て取っていました。一方ヘラクレイトスは、一なるもの、はじまり(アルケー)は相反するものの調和としてあると考えていたようです。
第3章 存在の思考へ
世界の在り方自体に疑問を投げかけた、パルメニデスが代表するエレア学派についてです。パルメニデスの言葉「あるならば、生まれず、滅びない」が、彼らの考え方をよく示しているでしょう。
第4章 四大と原子論
エレア学派による、同じものが変化するなどありえないのではないか、という問いへの応答です。アナクサゴラスの応答は「生成を混合するといい、消滅を分離すると呼ぶのが正しいだろう」。アルケーは多と動さえもふくみ、離合と集散、混合と分離により、一つの同じものでありながら異なる姿で現れる。そんな風に考えたようです。
エレア派による「あらぬがあるか」という問いに対する思索が続いています。レウキッポスやデモクリトスによる古代原子論も、その思考の流れの中で現れました。原子にはもはや感覚的な性質はなく、それらさまざまな形態を持つ原子が配列され、位置をもつことで、無限に多様な現象が生成する。現在の原子論と類似の思考が読み取れます。
第5章 知者と愛知者
「知を愛し、もとめる者」、つまりフィロ・ソフォス(哲学者)、ソクラテスについてです。ソクラテスは「自分は何もしらないと思っている」と言って、知の探究を続けた人です。
第6章 イデアと世界
イデア論で有名なプラトンが続きます。イデアはもともと「見られるもの」のことで、ものの姿やかたちのことなんですが、見る角度によって変わるような具体的な視覚像のことではなく、コインとか椅子とかのイメージのような、ものの認識を可能にする何かです。
第7章 自然のロゴス
プラトンの次はやはりアリストテレスです。生命への洞察が彼の思索の源です。形相とか可能態と現実態とかの言葉は、ものの変化をもとに洞察されたみたいです。質料としての樹木は、材木という形相を可能態として含み、かつての現実態として生命としての樹が、現在の現実態として材木が選びとられている、といった感じです。
第8章 生と死の技法
アリストテレスからヘレニズム期の哲学に続くのですが、まとまった資料が残っていないそうです。そのうちストア学派は経験論的な色彩が強く、自然科学や近代哲学の根底にある考え方とかと類似の思考が、すでにストア学派にみられました。感覚とは、外的な対象の刻印(印象)を受け取るだけでなく、むしろ「同意と把握(カタレープシス)」とからなっている。このような考え方は、現在の心理学や生理学とも関連を持つといってよいでしょう。
第9章 古代の懐疑論
近代、現代につながりそうな議論がすでにこの時代に見られます。
第10章 一者の思考へ
ギリシア・ローマ系とヘブライ系の思考が、お互いに混ざり合う時代で、新プラトン主義についてです。新プラトン主義の名の通り、”一なるもの”の実在を想定していて、「一者」について、「それ自体は多でもあるものが、一を分有することでひとつとなる。」という感じで考えられています。
第11章 神という真理
有名なアウグスティヌスについてです。デカルトの懐疑論と類似の思考が、すでにアウグスティヌスにおいて見られます。またアウグスティヌスの時間論では、過去、現在、未来とも本当は現在で、過去についての現在は記憶で、現在についての現在は直覚で、未来についての現在とは予期のことだと考えたようです。
第12章 一、善、永遠
ギリシア、ローマ哲学を中世に受け渡す上で重要な役割を担ったのがボエティウスです。ボエティウスにはハイデガーを連想する存在論的差異の議論があり、これは”存在なるもの”を想定したイデア的な考え方です。一方、形相とあらゆるものは、なんらかのしかたでむすびあわされているかぎりで存在しており、それ自体として存在するわけではない、という感じでアリストテレス的な考え方も見られるようです。
第13章 神性への道程
9世紀前後はルネッサンスがたびたび起こった時代です。この時代に活躍したのは、偽ディオニシオス、エリウゲナ、アンセルムスらです。このうちエリウゲナは「自然」の四分割で有名です。第一から順に、創造し創造されないもの、創造され創造するもの、創造され創造しないもの、創造せず創造しないものです。順に神、イデア、被造物、そして第四の自然は無であり同時に神のことだとされています。
第14章 哲学と神学と
13世紀に入ってトマス・アクィナスについてです。トマスには神の存在証明の議論があります。無限に遡行することは不可能で、始まりが必要とされるのだけど、それを人は神と理解する、そのように考えたようです。また世界と存在の在り方を異にする神について、「類比」でその存在を捉えることができると考えました。
第15章 神の絶対性へ
中世哲学で最も有名なスコトゥスやオッカムについてです。彼らは「一義性」を定義することで、通常の論理的操作が成立する条件を確保しようとしたようです。
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