竹田青磁『現象学入門』書評と要約 - 趣味で学問

竹田青磁『現象学入門』書評と要約

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目次

1 評価

竹田青磁『現象学入門』

評価:

タイトルは「現象学入門」ですが、内容はほぼフッサールについてです。木田元によるとフッサール自身がそれまでの自身の思想を乗り越えていっているとのことですが、そういったことはこの本には全く書いてませんでした。フッサールの思想の変遷には触れず、代わりにフッサールへの批判に対する批判が著書全体に散りばめられてます。話の流れをわかりづらくしている主要因だと自分は思っていて、正直「もったいない」というのがこの本の感想です。

ほぼフッサールの思想に絞って記述されているので、フッサールの思想は詳述されているかと思いきや、反復が多くて記述量の割にはそれほどでもなかったりします。木田元の『現象学』に比べ、記述自体は読みやすいですし、示唆に富む箇所もたくさんあります。<主観>と<客観>の完全一致は可能か、という視点が通底してあり、この問題は本来は考える必要のないものだという結論を導く流れは納得のいくものです。現象学の入門書としてはどうだろうと思いますが、重要な視点を提示してくれているので、他の現象学関連書を読んでいたとしても一読の価値はあると思います。それから本の終わりに25ページに及ぶ現象学用語集があって、これは非常にありがたいです。以上、不満と評価できる点を踏まえて、可もなく不可もない、評価3にしてます。

2.章ごとの要約

各章ごとに簡単な要約を上げておくことにします。

第一章 現象学の基本問題

近代哲学の根本問題として「主観と客観」の二元論が挙げられます。簡単に言うと、今目の前に石ころが見えているとして、この見えている石ころは本当に対象として存在する石ころと同じ存在であると言えるのか、その保証は存在するか、といった問題です。これが根本問題とされるのは、自然科学の仮説検証において、仮説が主観、検証で得られる確証が客観にあたるためです。自然科学においてというよりも、自然科学の方法を人文科学に適用するときに問題が生じます。

デカルト、カント、ヘーゲルの思想を経てこの問題に対して言えることは、<主観>と<客観>の一致を論理的に突き詰めると、極端な「決定論」か極端な「相対論」、「懐疑主義」、「不可知論」のどちらかに行きついてしまうということです。ニーチェは<主観/客観>図式への疑念を理論化し、世の中に千差万別の意見があるに過ぎないのに、なぜ様々な人に共有される共通認識や、議論による「納得」が成立するのか、といった疑問を生じさせます。そしてニーチェが直感的に気づいていたことを引き継いで徹底した考察を加えたのがフッサールです。

第二章 現象学的「還元」について

デカルトが考えたように、「夢」と「現実」を区別する根拠は存在しませんが、しかし実際には我々は心の底では「現実」の存在を確信しています。フッサールは、人間はただ<主観>の内側だけから「正しさ」の根拠をつかみとっている、と考えています。そして重要となるのは主-客の一致の確証などではなく、これが現実であることは「疑えない」という確信がどのように生じるのか、です。そうすると主観の側、独我論的主観からあえて始める必要があり、そこから不可疑性が生じる根拠を求めることになります。「還元」という言葉は以上の事情全般を指すような言葉として考えることができます。

フッサールの「諸原理の原理」は、認識、判断のいちばん底で源泉となるもののことです。フッサールは、直接の経験によるためその人にとって疑うことができない「直接判断」と、直接判断をもとに新しい事態に際しての類推などの「間接判断」に分けて考えています。直接判断を疑ってみた結果、最後に残る疑い得ないものをフッサールは「知覚直観」としています。この概念が指していることは、あらゆる意識表象の中で知覚だけは特別に意識の自由にならないものとして現れることです。そしてこの意識によって自由にならないという性質から、知覚は「疑いえないもの」として現れてくることになります。さらに我々の知覚経験には、私と他人は同じものを感覚しているという直感が働くのであり、これが言葉一般を可能にしている根本的な土台となっています。

第三章 現象学の方法

『イデーン』を読むにあたっての注意点をまとめると8つになります。

  1. 自然的態度、素朴な世界像について:私たちが普段もっている「自然的な世界像」は、空間・時間的な拡がりを持っており、さまざまな価値やエロスを含んだ実践的な働きかけの対象として現れてきます。
  2. <還元>の開始…エポケーの方法:<主-客>問題を解くためには、自然的態度にある<主観/客観>図式の前提を一時的にやめる必要があり、この一時停止が「還元」です。
  3. 「純粋意識」という残余、超越論的主観について:還元の結果、最後に残るのが純粋意識で、これは人間の経験や世界像一般を可能にしているいちばん基礎のはたらきのことです。
  4. 超越論的主観における「世界の構成」:フッサールにおいては人間の直接経験が第一の視線であり、これを対象化する第二の視線がドクサです。そして現象学的還元で得られる視線は第二の視線を対象化した第三の視線です。
  5. 事象は「志向的統一」である…コギタチオ-コギターツム:人間の知覚は微妙な違いをもった射影の連続として与えられるはずですが、実際には「同一の机を見ている」という端的な経験として現れてきます。このことからフッサールは「人間の具体的経験は、「多様な知覚」という素材から意識の「志向的統一」という「はたらき」を通して構成されたものだ」(p.90)と考えています。
  6. <内在-超越>原理:フッサールは「原的な体験」にあたるものを「内在」、”構成された事象経験”を「超越」と呼んでいます。内在というのは、リンゴが赤く感じたというときの「感じた」という疑い得ない側面のことです。超越は「これは机である」とかの同定であり原理的にはいつも可疑的です。
  7. 意味統一としての「経験」…自我という極の意味:人間が生きている世界は、すでに「意味の統一」によっての現われの世界です。フッサールが諸表象の体験流とか絶対的与件と呼ぶのは、それ以上反省されない(意識が自分自身についてその現象の因果を知りえない)限界、という意味でです。
  8. <ノエシス>-<ノエマ>構造:フッサールは心的世界の構成について、「素材」(ヒュレー)と「形式」(モルフェー)の図式で考えています。人間は何かをするとき、つねに何を行おうとしているか把握し続けることでそれが可能となっており、<意識>の「ノエシス的契機」というのはこの志向性をもったはたらきのことです。ノエシス的契機によって事実として意識に現れる<超越>的対象物がノエマです。ノエマは多層的な意味系列として、そのつど意味あるものとして、さまざまにある価値を持ったものとしての現れを持ちます。実際のノエマ的相関者はもろもろのノエシスとノエマが相互に積み重なったものでもあります。

第四章 現象学の展開

後期フッサールの思想を考察していきます。この章での問題点は次の三つです。

  1. 近代的な世界像の成立
  2. 間主観性
  3. 生活世界

実証科学を除いて西洋の学問は19世紀に危機を迎えます。その理由は<主観-客観>問題の謎を解き明かさなかったためとフッサールは考えました。<主観-客観>図式は次の過程から自明なものとみなされるようになったと考えられています。時間・空間的延長の数学化から感性的性質の数式化へと拡がり、生活世界と理念化された世界の解離と逆転が導かれ、心身二元論が成立したためです。

フッサールは、「他我が<私>と同じような存在として実在している」という確信が先で、これが客観世界の存在の確信にもとにあると考えています。<自我-世界>という関係が構成され、それをもとに<他我>が構成され、そしてこれをもとに、それと同時的に成立する客観的世界(客観的時空間)が構成されます。フッサールの他我の考え方の問題点は、<私>の身体了解の「類比」として<他人>の身体が類推されているところです。「他なるもの」の了解において第一の起点となるのは、<知覚>直観ではなく情動的所与と思われます。

生活世界は<私>を中心に拡がる意味、価値の「地平」として与えられます。人間にとっての事物は、固有の意味と価値の秩序の中の存在として、人間の実践的関心に応じて現れてきます。

第五章 現象学の探究

近代哲学は基本的には主観から客観を説明しようとする立場で、フッサールは主観-客観図式の問題を解くにはあえて観念論を徹底しなくてはならないと説いたのですが、これによって最後の独我論者とみなされてしまいました。構造主義、ポスト構造主義による批判もこのような視点からなされています。

サルトルは意識=自由を人間の本質としていますが、フッサールは意識にとって自由にならないものを明証性の根拠として追いつめています。人間の自由というのは意識の自由を行使できるというようなものではなく、人間の世界が一定の秩序を持ちながらその秩序を疑いそのすえに確かめ直すことができるということ、世界がそのような現実感をもって経験されることです。

メルロ=ポンティが直観していたのは、「物質的因果の秩序と心的な秩序の原理はまったく異質で非連続的(非対称的)なものだということ」(p.175)だと思われます。一方、フッサールによると主観と客観は非連続で非対称な関係であり、主観から客観という一方通行的な関係です。

ハイデガーの現象学の方法において、「道具連関」と「気遣い」(ゾルゲ)の重要な二つの言葉があります。気遣いは簡単にいうと、人間が世界に向けている多様な関心・欲求のことです。人は気遣いによって、生のそれぞれの場面に応じて、自分にとっての対象を道具連関として規定しています。そして現存在の気遣いは、必ずなんらかの意味へ向けられています。主観において、多くの主観が共同で何らかの目的を持つのであり、このときさまざまな意味が交換され、共通了解として、つまりある<客観>像として受けとられます。この客観像は客観的実在そのものではないのですが、<主観-客観>問題はこれらを混同してしまうことによって引き起こされています。

現象学-存在論の思想により、<主観-客観>の謎が解明されたことになります。しかし解明というのは、「この矛盾の必然性が十分に了解でき、そのことによってパラドクスとして現れていた謎が奇妙なものとは感じられなくなり、そこには探究すべき問題がなにひとつ残らないというかたちで問題が終わることである。」(p.202)

3.追記

いつになく章ごとの要約が長くなってしまいました。各章を上手くまとめられなかったです。やはり他の著書に比べて、章ごとのまとまりはあまりないと思います。

上の要約は、自分の関心にそって自分がわかりやすいように抜き出してまとめたものです。そのため重要な考え方がかなり飛んで行ってしまっています。ページ冒頭でも書きましたが、本としてのまとまりはよくなくても、重要と思われる考え方が全般に散りばめられています。ぜひご自分で、竹田の思想を著書から引き出してみて下さい。

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むつきさっち

物理と数学が苦手な工学博士。 機械翻訳で博士を取ったので一応人工知能研究者。研究過程で蒐集した知識をまとめていきます。紹介するのはたぶんほとんど文系分野。 でも物理と大学数学も入門を書く予定。いつの日か。

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