木田元『現象学』書評と要約
評価:
この著書は木田元による現象学の入門書にあたります。50年以上前の著作ですが、現在でも現象学の内容とそれを取り巻く状況をわかりやすく解説した良書です。当時は日本においても現象学への関心が高まっていたらしく、必要性を感じての執筆だったらしいです。
現象学はその始祖に当たるフッサール自身が思想の変遷を見せているため、歴史的経緯をたどっていかないとよくわからなくなるようです。哲学入門書では後期フッサールの思想が全く触れられていないものもけっこうあって、現象学の理解に不適切なものが実際に多々あります。フッサールからハイデガー、メルロ=ポンティへと流れていく思想の流れを理解するのに、歴史的経緯と思想の変遷を関係させて詳述されているこの著書が、最適であるのは間違いないです。
上で「わかりやすく」と言いましたが、私のような門外漢では何度読み返しても理解できないところが多々でてきます。私の理解できた部分をもとにした要約を下に上げておきますので、良ければ参考にしてみてください。もちろん私の理解が適切である保証はありませんので悪しからず。
章ごとの要約
序章 現象学とは何か
日本でも1960年代あたりで、現象学が若者に歓迎されるという事態が起こりました。現象学は「厳密な学としての哲学」を目指して出発したのですが、ハイデガーやサルトルの名と結びついて実存哲学の不可欠な方法とみなされるようになったこともその要因と考えられます。
現象学はフッサールが提唱した哲学的立場ですが、ハイデガーやメルロ=ポンティのもとで変貌していきます。フッサール自身によっても何度も練り直されていくのですが、こういった変遷は諸科学の領域で進行中の方法論的革新を集約し主題化することと関係していたと考えられます。したがって、現象学的運動は今世紀の科学、ことに人間科学の諸領域をおおう包括的な運動と見るべきです。現象学は完結した一つの理論体系とか形而上学のたぐいではなく、開かれた方法的態度だと言えます。
Ⅰ フッサールと時代の思想的状況
まずフッサールは数学者として出発し哲学へと専攻を変えます。当時の心理学では心理学主義(先天的な観念と考えられていた数学的観念や論理学的観念においても経験的心理学的起源を明らかにできるとする考え方)の立場が一般にとられており、フッサールも著書『算術の哲学-心理学的および論理学的研究』で数の概念と数えるという心の働きとの関連を解明しようとしています。一方数学界では極度の形式化が進んでおり、フッサールは次に、このような純粋論理学を構想するとともに、自身のかつて立っていた心理学主義への反省も行います。この時期のフッサールは実在的な対象のほかに概念、命題、真理などイデア的対象の自体的存在を認めるプラトン的なイデア主義に近い立場を取っていました。フッサールは、主観的な論理的体験と客観的なイデア的対象性との相関関係を解き明かすために、ブレンターノの「志向性」の概念を援用します。その際の方法として、「いっさいの理論的関心を離れて認識体験を純粋に記述するだけ」の作業を、「現象学」と呼んでいます。
Ⅱ 超越論的現象学の展開-フッサール成熟期の思想-
フッサールの『論理学研究』は心理学主義批判の書で、それをさらに自然主義批判と歴史主義批判まで広げた、厳密な学的哲学の確立を説くのが『厳密学としての哲学』です。近代ヨーロッパの哲学者たちにとっては究極的な根拠をもつ知識の体系であった「学」ですが、こうした体系への信頼が失墜した時代にそれを回復しようとしたのが『厳密学としての哲学』です。
フッサールは自然科学的方法には、自然を所与として素朴に前提してかかる「自然的態度」がひそんでいると考え、それに「現象学的態度」を鋭く対比させようとしています。対象や事態を「ある」と決めてかかる断定の保留を、フッサールは「現象学的還元」と呼んでいます。当時のフッサールは超越論的還元により我々の意識は世界さえも志向的相関者としてもつ超越論的意識となると考えており、超越論的還元により、いかにして世界といった意味が形成されてくるかを見きわめようとしました。
Ⅲ 生活世界の現象学-フッサールの後期思想-
フッサールは『イデーン』第二巻において、「自然的態度」と「自然主義的態度」を区別するようになります。そして還元において超えられるべきであったのは、実は自然科学のように自然を客体化して観る自然主義的態度だったのだと考えるようになります。
前もって与えられている世界をも一つの世界定立であり臆見(ドクサ)だとすると、これは「根源的臆見」(ウアドクサ)と呼ぶべきでしょう。フッサールは意識作用の根底で働く構成機能を「作動しつつある志向性」と呼び、「受動的綜合」という概念を持ち出してきています。後期フッサールの思想において、哲学的主体が現象学的反省によって見出すのは、生活世界への自己自身の受動的な内属です。
Ⅳ 実存の現象学
ハイデガーは『存在と時間』において、哲学は本来、存在者を存在者たらしめる「存在」seinとは何かを問うことと考えており、その手がかりとして人間存在の分析を行ったのですが、「存在一般の意味を問う」はずの下巻が断念されたため、この著作は実存哲学の書と見られることになります。
フッサールは世界の開示のされ方を「受動的な前もっての構成」と言っていましたが、ハイデガーも同様の考え方をしています。現存在が、気がついた時にはいつもすでに世界のうちに投げ出されてあるという「被投性」に受動的契機を、にもかかわらずその世界内存在をおのれの存在として投げ企てうるという「企投」に能動的契機を認め、内存在とはこれら両契機がからみあう「被投的企投」にほかならないと考えています。
Ⅴ サルトルと現象学
当時のフランスでは思想的な逼塞状態があり、それを打ち破るものとしてサルトルは現象学に期待していました。サルトルの心理学批判を簡単にまとめると、心理学で区別されている概念は、実際のところは常識とか直観とかがもとになっていて、学問的な反省を十分に得ていない理念をもちこんでいるわけなので、こういったいい加減な理念にもとづいて蒐集された事実、企てられた実験の成果に科学的価値はたいして認められない、というようなものです。
Ⅵ メルロ=ポンティと現象学の現状
一般的に思われていることと違って、後期フッサールにおける現象学的還元は超越論的観念論ではなくて、人間の世界への内属を前提にその仕方を先入見をいったん置いて観察しようとするものです。後期フッサールと同様に、メルロ=ポンティにおいても現象学的還元で照らし出されるのは「生きられる世界」です。たとえば心理学における「恒常仮定」や主知主義では、「ミュラー-リア―の錯視」や、地平線にある月は天心にあるときよりも大きく見える場合など、実際の観察結果を説明できません。客体的世界の手前に、それ自身の規則に従って分節する構文法があるはずで、この構文法によって組織される意識の状態を見つめなければならない、それを教えたのがゲシュタルト学説であるとメルロ=ポンティは考えています。
意味というものは有機的全体として現す構文法によって生じます。また知覚は所与の配置とともにそれらを結合する意味をも一挙に生み出す働きです。さらに「意識的」ということは、対象の同一化作用を介しての自己統覚を伴う、ということとして考えられます。メルロ=ポンティは知覚経験の主体を「自己の身体」と考えていて、知覚的な世界経験はまだ意識的ではないとされています。我々の知覚は身体的な実存であり、身体そのものが意識の根源的な在り方だといえます。そのことから、我々にとって世界は相互感覚的統一として現れますが、その統一をもたらす身体図式の統一は前論理的で不明瞭で潜在的であるので、生きられる世界の統一も曖昧な両義的なものだということになります。
メルロ=ポンティの相互主観性の考え方は、ヴァロンなどの発達心理学を参照にしています。ヴァロンなどの発達心理学では、ある時期の幼児は自分の身体に当てはまることは他人の身体にも当てはまると考えている、とされています。この一種の癒合性は、三歳の危機と呼ばれる時期においてのりこえられるのですが、かつての癒合性が完全に失われるわけではなく、成年期の思考の底に幼児期の思考がとどまり、しかも成人の相互主観的世界においてこの癒合的関係がそれなりに寄与していると考えられます。
終章 何のための現象学か
ヘーゲルとフッサールの「現象学」には類似点があるとメルロ=ポンティは考えています。ヘーゲルの考えでは、精神は現象を介してしか知られえないものであり、フッサールも現象の研究を通して理性の性質をあらわにしようとしていて、ここに二人の現象学の共通性が見出せるのではないかと考えられています。
レヴィ=ストロースは、芸術、神話、儀式などのさまざまなシステムの錯綜した全体が社会であると考えています。彼は「社会構造」と「社会関係」の区別を設けていて、前者は抽象度の高いモデルであり、後者はそのモデルを構成するのに使用される初次的素材のことです。メルロ=ポンティが構造と呼んでいるのはむしろ社会関係の方で、彼の関心が、構造という概念によって開かれてくる新しい現象学的地平にあるために、意図的な歪曲がなされたと考えられます。
ここまでを振り返って我々にとっての現象学の意義を考えると、生きた経験に還って問うことが現象学的態度であり、諸科学の成果を生きた経験の全体のうちに位置づけることのできる「開かれた方法」として、現象学を見出すことができます。
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