近代の哲学を読むにあたって - 近代 - 趣味で学問

近代の哲学を読むにあたって

1.哲学入門の主な対象者

このサイトの哲学入門は私の備忘録という目的もあるんですが、それとは別に、理工系の人間を対象とした哲学入門を書くという、もう一つの主目的があります。なぜ私が哲学を読み始めたかと言うと、知覚や認識をどのように考えればよいかのヒントを得るために現象学を読もうとして、どうにもわからなくてその元になっている近代哲学、そのさらに元になっている古代の哲学に遡っていった、という経緯があります。そのこともあって私が想定している読者は、私と同じように知覚と認識に関係するような理工学分野出身で、研究の必要性から知覚と認識に関わる哲学を読み始めたような人たちです。

いわゆる「認知」と呼ばれる事態について詳しく議論が展開されたのが近代の哲学であり、デカルトやライプニッツなど、理工系の人間にもなじみの深い哲学者の名前を列挙することができます。理工系の人間が当たり前のように使っている直交座標系や微分方程式などを考案したのが彼らなのですから、やはり理工系出身者にとってその概念のもとになった考え方を知っておくことは、是非とも必要なことに思えます。

近代の哲学は、同時期に発展していった科学と並走してその支えとなったものです。現在の科学とどのように続いているかを、理工系の人間が理解できるような形で示せたらと思っています。

2.心的事象に関わる概念の不統一

「こころ」の働きに関する言葉は、今も昔も定義がはっきりしません。熊野純彦『西洋哲学史 近代から現代へ』に挙げられていた一部の言葉とその意味を、表に簡単にまとめてみます。

概念使用者意味
観念1ロック 思考の対象一般
観念2バークリー 知覚像と想像心像
観念3ヒューム 想像心像
印象ヒューム 知覚像
知覚ヒューム 印象と観念3(想像心像)

「観念」の言葉で人それぞれに違う意味で使っているのがわかると思います。このように心的現実に関わる言葉の意味や使用の仕方が錯綜していて、近代哲学を読みづらくしている主要因の一つだと思われます。新しく概念が出てくるたびに、定義を示しながら彼らの考え方を記述していく予定です。

3.知性偏重という特性

3.1 意識や認識

「こころ」に関する言葉の定義が不安定なのは現在も変わりありません。例えば「表象」を私は「心への何かしらの現れ全般」として使っているのですが、視覚像に限定して使用している人もいます。言葉の定義が一定しないのには理由があって、普段当たり前のように使っているいくつかの言葉が、異なる現象を対象にする言葉かそれとも一つの対象を違う側面から見た言葉なのか、そのような区別さえ誰にも明らかにすることができていないためです。一つ例をとると、「表象」は「意識」への現れのように思えますが、明確な意識がない状態でも知覚と行動が成立している場合があり、表象が「何に」対して現れているのか確定させることが難しいです。そうすると我々が「認識」と呼ぶ、目の前の対象がそれとして(意味を持って)現れるという現象も、表象や意識と同じ作用なのかそれらを元にした一階層上位の心的事象なのか、明示することができません。

3.2 人間の根源としての知性

では近代哲学においてはどうなのかというと、実は「認識」という言葉の意味が我々が使っている意味と少し異なっているようです。認識の言葉で意味されるのは、むしろ「知性」や「理性」のようです。有名な経験論と合理論で対象となっているのも、この知性や理性であるといってよいでしょう。

近代西洋哲学においては、それが神により与えられた生得的なものか経験によるものでしかないかのどちらにしろ、知性と理性が人間の根源として捉えられていたことを示しているはずです。これから近代哲学のページを上げていくにあたって、理性と知性がその議論でどのように基底として働いているかをみることで、ずいぶんと議論の見通しがよくなりそうです。

  • 参照文献1:熊野純彦『西洋哲学史 近代から現代へ』(岩波書店) 書評と要約
  • 参照文献2:木田元『反哲学史』(講談社学術文庫) 書評と要約

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むつきさっち

物理と数学が苦手な工学博士。 機械翻訳で博士を取ったので一応人工知能研究者。研究過程で蒐集した知識をまとめていきます。紹介するのはたぶんほとんど文系分野。 でも物理と数学も入門を書く予定。いつの日か。

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