ソクラテスのアイロニー - 古代 - 趣味で学問

ソクラテスのアイロニー

1.エレンコス

ソクラテスは「自分は何も知らないと思っている」と言って、知の探究を貫いた人です。彼はソフィストとの答弁において、自分の主張を自分でいうのではなく、相手に質問を重ねて自分の言いたいことに誘導するような弁論の方法をとったようです。これはエレンコスと呼ばれています。

例えばある人が「快楽をもとめることこそが幸福(エウダイモニア)であると主張」したとします。「ひとが皮膚病にかかっていて、かゆくてたまらず、こころゆくまで掻くことができるので、掻きながら一生を送りとおすとしたら、そのひとは、幸福に生きることになるのだろうか」とソクラテスは問います。この問にそうだとは答えられないですが、だからといって、そうではない、それは悪い快楽だ、などとは言えません。そう言ってしまうと、「善い快楽と悪い快楽を区別しなければならない」ことになってしまうので、快楽よりもまず善悪の判断が大事だと言ったも同然になってしまうからです。

2.エイローネイアー(アイロニー)

ソクラテスが愛知者としてソフィストに問いかけてゆくその問答において、当時のアテナイ市民たちは「エイローネイアー」と呼ばれる態度を見て取っていました。この言葉は現在のアイロニー(irony)のもとになった言葉です。英語のironyは普通「皮肉」と訳されますが、「エイローネイアー」はかつての邦訳では「空とぼけ」とか「白ばくれ」と訳されています。実際に当時のアテナイの市民は、ソクラテスの態度を狡猾な「白ばくれ」と見ていたようです。

それに対し後世の哲学者たちはソクラテスの態度に、「皮肉」という概念でもっと深い構造を認めていました。皮肉も嘘も、内面と外面の相違という同じ構造を持ちます。嘘の場合は偽装された外面をそのまま受け取ってもらわないといけないのですが、皮肉では内面と異なった外面が偽装されながら、その外面がそのまま相手に受け取られてもらっては困ることになります。皮肉が皮肉となるには、相手が内面の偽装に気づいてくれなければなりません。皮肉が通じたとき、皮肉を言う側でも言われる側でも、内と外との間の矛盾が解消されるのですが、特に皮肉を言われた側では自分の無知を知ることにより、内なる本質への帰還が行われると期待できます。このように皮肉には教育的手段としての効用が期待できます。しかし彼らの間で信頼関係がないような場合は、皮肉は一種の無礼であり、低俗な気どりに堕してしまうでしょう。

ソクラテスの場合も教育的な目的で皮肉を用いた側面があったでしょうが、それで話が終わりではありません。ソクラテスの対話ではいつも相手が実は知っていると思い込んでいただけで、本当は何も知らなかったということがわかったところで話が終わっており、何一つ肯定的な結論がでてきません。彼の無知の告白は文字通りに受け取らねばならないようです。ソクラテスのアイロニーは単なる「皮肉」という、ものの言い方の一つのスタイルといったものではなく、一つの根本的な生き方と言ってよいでしょう。アイロニーとは、「外なる現象を仮象として否定し、真の本質へ立ち返ろうとする運動」と考えることができます。しかし彼の場合は、その立ちかえった本質をさえもさらに仮象として否定するといったふうに、そのアイロニカルな否定が無限に繰りかえされる、無限否定性というべきものです。ソクラテスはこのような無限否定性を、思想のみならず現実政治の場面でも貫きました。これはソクラテスをしても、時折りカタレプシー(強硬病)の発作を起こして休まなければならないほど厳しいものだったにちがいありません。

3.ソクラテス裁判

ソクラテスが最後裁判にかけられて処刑されたことは有名です。実はソクラテスが裁判にかけられた理由は政治的なものでした。「国家の認める神々を認めず、新しい鬼神(ダイモーン)の祭りを導入し、かつ青年に害悪を及ぼす」という三つの理由で告発されたのですが、これは名目に過ぎませんでした。ソクラテスのかつての弟子アルキビアデース、クリチアス、カルミデスの政治責任をソクラテスに追求することがこの裁判の本来の目的です。こういった事情からソクラテス裁判は表向きの告発理由と真の告発理由を持つ二重構造になっていました。

ソクラテスは寡頭制の思想的指導者とみなされていましたが、ソクラテス自身は裁判でそれを否定します。彼の言おうとしたのは、「自分は特定の政治的立場を支持しようというのではなく、眼前に現れる現実政治のすべての立場を片っぱしから批判しようとしただけなのだ」ということです。ですからソクラテスは現実政治の場においても無限否定性としてのアイロニーを貫こうとしたことになります。おそらく彼は、民主政対少数寡頭政という政治的対立を成り立たせている、その基盤を根底から否定しようとしたのだと思われます。

ソクラテスがなぜここまで無限否定性を貫こうとしたかは、はっきりとはわかりません。アテナイの民主政の堕落という歴史的必然性はもちろんあったでしょうが、それだけとはとても思えません。「ソクラテスが否定しようとした古いものとは、おそらく当時のギリシア人がものを考え、ことを行う際に、つねに暗黙の前提にしていたもの、つまり彼らがありとしあらゆるもの、存在者の全体を見るその見方だったと思われます。」(木田元『反哲学史』第三章)

  • 参照文献:木田元『反哲学史』(講談社学術文庫)

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むつきさっち

物理と数学が苦手な工学博士。 機械翻訳で博士を取ったので一応人工知能研究者。研究過程で蒐集した知識をまとめていきます。紹介するのはたぶんほとんど文系分野。 でも物理と数学も入門を書く予定。いつの日か。

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