大澤真幸、木村草太『憲法の条件』書評と要約
評価:
この本は大澤真幸と木村草太の対談で2015年の本ですが、日本国憲法に関して今まさに必要な視点を与えてくれます。憲法についての対談だけど、どちらかというと法学者の木村草太の方が聞き手に回ることが多い印象です。とはいっても法に関して具体的な話をしているのは木村草太の方です。大澤は一段抽象化して話を広げながらつなげていく、という役回りをとってる感じです。
一番大きく取り上げられているのは憲法九条で、これは当時の集団的自衛権に関する情勢が影響しています。それ以外にも「空気」の支配とかヘイトスピーチとか、憲法や国会に関わる事例について、わりと広めに議論が展開されてます。でも法を法たらしめるものは何かという問いを根底にしている点で、すべての議論がつながってます。そして憲法九条を考えるうえで、国際公共価値にどう寄与するかを考えるべきという点で二人の意見は一致しています。ウクライナ危機や中国情勢で憲法九条が再び脚光を浴びる今だからこそ、法のはじまりの視点を含むこれらの議論を参照にすべきでしょう。
以下、章ごとの要約をまとめます。対談集ですが、かなりの部分で二人の意見は収束していっているので、どちらの発言かはとくに示さないことにします。
章ごとの要約
第一章 「法の支配」と「空気の支配」
法がその社会で機能するための前提条件があり、それは「法の支配」と呼ばれています。法が法として機能するためには二つの条件があって、一つは固有名を使ってはいけないこと(抽象性)で、もう一つは、形式的な手続きで成立すること(形式性)です。一国で見た場合は、超越的(人を超えて人の行動を規定する)であるはずの法を人間が作り出すという、二律背反的ともいえる側面があって、この対立的な二つの側面を満たす条件が「抽象性」や「形式性」だと考えられます。
第二章 幻想の「国体」と日本国憲法
法学者から見ると、日本国憲法は、人権保障もあるし三権分立や地方自治も定められた「普通」の憲法典です。しかし日本での日本国憲法の捉え方は両極端です。その状況に対し、第二次大戦での敗戦に戻って考える必要があります。極東軍事裁判はある意味かなり寛容で、戦争責任をA級戦犯に限定することで日本人全般は免罪されました。しかし天皇の戦争責任が霧散すると同時に、日本の民衆に加害者意識が残らなかったという問題も生じました。さらに敗北も否認して、一種の津波のようなもの、南海のゴジラからアメリカが救ってくれたと考えているような状況が生み出されてしまいました。
憲法が機能するには、普遍に命を宿す物語が必要です。日本国憲法の大元になる敗戦を認めることができないので、物語の担保になる死者の視線も排除してしまい、日本国憲法が機能してくれません。戦前の大日本帝国憲法では物語が今よりは機能していて、その物語の中心が「国体」でした。戦前でも国体という言葉が何を指しているかよくわかっていなかったのですが、その空疎さを隠ぺいする装置はあって、今は隠ぺいさえできていません。以上を踏まえて考えるべきは、死者の視点ではなく未来の他者の視点です。
第三章 ヘイトスピーチ化する日本
ヘイトスピーチに関して、言論の自由は守られなくてはならないですが、そのままでは言葉で傷付けられてしまう人が出てきてしまいます。ヘイトスピーチをしている人たちのほとんどは、在日コリアンに対する実際上の恨みをもっているわけではないし、彼ら自身がそれをわかっています。彼らに共通することの一つに、普遍が嫌いだということがあります。ヘイトスピーチを行う根源には愛情欲求があって、最終的に愛情を求めているのは「国」に対してです。一般に愛が感じ取られるには断固とした分け隔てが必要で、そのため普遍主義のみんなを愛するという立場が欺瞞として見えてしまいます。そして彼らは在日コリアンに差別的な振る舞いを取ることで、国から愛されようとしているとみなせます。
現実的には、「している側」の問題であるので、ヘイトスピーチでしか満足を得られない人を大量に生み出してしまう社会の構造やあり方自体を変えるのが最もよい対策です。ヘイトスピーチに垣間見えるのは、日本全体で自信を持てないことが起因して様々な問題が生じていることです。憲法を一つの核として日本人の自尊心やプライドがはっきりと根につけば、ヘイトスピーチのような問題は消えていくと考えられます。
第四章 偽りの集団的自衛権
現在の国際法では武力行使一般が違法とされていて、国家による武力行使一切を禁じるのが原則です。しかし侵略国が現れたときのために、「侵略国に対応する制度として、「集団安全保障」というものが用意されています。国連が措置をとるためには安保理決議が必要で、安保理決議までの「つなぎ措置」として、個別的自衛権と集団的自衛権が認められています。日本国憲法九条で一切の武力行使を禁止しているというところでは、憲法解釈学説はほぼ一致しています。
日本政府には国民の生命や生活等を守る義務があるので、日本が武力攻撃を受けた場合には、国民を守るためにどうしても必要な反撃は許される、とこれまでは理解されてきました。これに対して集団的自衛権に関しては、憲法の条文をいくら探してもそれを許容するような表現がありません。憲法には個人と国家の関係を規定している法律ということの他に、「日本人が共有する歴史物語としての性質」、「諸外国に向けた外交宣言としての性質」があります。集団的自衛権や憲法九条に関する議論は、国際公共価値を出発点にするべきと考えられます。
第五章 議論なき議会と「空気」の支配
日本の議会には機能不全が起きていて、自分とは違う立場の人を無視してしまっています。政治というのはそもそも、自分とは異なる価値や考えをもっている他者と合議し、公共的な決定をつくりだすプロセスなので、他者と向き合わないと話が始まりません。
ハンナ・アーレントは、多様性のある状況を複数性と表現し、非常に肯定的に捉えています。しかし日本の場合は全員一致が望ましい状態とされています。日本での全員一致は、実際には日本人全体ではなくそこに一緒にいる人の間だけにおいてです。投票では各投票者が「一般意志はXを欲しているだろう」と推測することについて投票する、ということがルソーにおいて前提になっています。「命令委任の禁止」は選ばれた国会議員には一般意志についての考え方に基づいて行動するために、命令委任の束縛から解放する、というものですが、実際には期待されることとは逆に個人的な価値観のぶつかり合いになってしまっています。そうすると最終的に結論に持ち込むためには、対立のない世界をつくり、議論したふりをするしかありません。
差別は「人間の類型に向けられた否定的な感情」という形で定義できます。人間を類型で見ることは、その人の個性を無視する結果につながる可能性が高く、その場合は「個人の尊重」という憲法の基本理念に反します。ヘイトスピーチに対してレッテル貼りして類型化して攻撃してしまったのでは、相手と同じです。相手の立場に立つことが重要で、それは「それぞれの立場を括弧に入れて、いわば普遍性の立場で考えるということ」です。
第六章 憲法を私たちのものにするために
日本人は敗戦を拒絶してしまったために過去の他者の視線を基付けにすることができません。そのため「未来の他者」の願望を受け取ることが必要で、それができれば日本国憲法に命を吹き込むことができるかもしれません。法は公共的価値を探すため、他者との共存のために存在している、という原則を持ちます。そして日本国憲法は、日本の法律なので日本政府や日本人についての法ですが、同時に普遍的な妥当性を目指すものでもあります。
憲法のこの独特の矛盾が最もはっきり表れるのは憲法九条です。憲法についてはどの立場の人も、いまの憲法に足りないところ、これから向かうべき方向性を具体的に模索し、魅力的な「改憲案」を出すべきです。リベラル派も変わりはありません。「こういう世界をつくりたい」という前向きな声に答えて、様々な議論をかわせるような文化を築いていくべきときが来ています。
追記
一応話がつながるように要約した結果、いろいろな話題が飛んで行ってしまいました。それはもう仕方ないので、気になる人は本の方をどうぞ。
けっこういろんな方向に話が飛んでいってる感じはするのですが、大澤真幸との対談なので、やっぱり「普遍性」と未来に向けてどう変えていくか、というところは本を通して共通しています。今現在のウクライナ危機に関連して憲法九条改正が叫ばれるような状況でも、というよりも今そのような状態だからこそ、国際公共価値という普遍性の視点を持ちたいものです。
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