大澤真幸『文明の内なる衝突』書評と要約 - 趣味で学問

大澤真幸『文明の内なる衝突』書評と要約

評価:

大澤真幸『文明の内なる衝突』の書評と要約です。ただし読んだのが増補版ではなくて旧版なので、東日本大震災に対する論考は含んでないです。もし読んだら増補版追加分も要約を追加します。

大澤真幸は日本の社会学における第一人者の一人です。大澤の著書に対して、「数学の記述がいい加減すぎる」とか、「議論の展開が強引過ぎてもはやロジックでない」とか、「プラグマティズムをやたら押すけどその話に全然関係ない」とか言われてて、私も同意します。でもこの人の本でしか味わえない、具象性と抽象化の循環によるダイナミズムがあるのです。で、この人の欠点を最小限に、長所が最大に発揮された良書の代表格の一つがこの本です。2001年の同時多発テロを対象にして書かれた、資本主義陣営とイスラーム社会を共に包括する視点を持つ本です。

要約を下に載せますが、その前に「第三者の審級」についてだけ説明しておきます。最初期の『身体の比較社会学』から、一貫して用いられている重要概念です。第三者の審級とは、一言で言えば超越性の投射先のことです。そして規範の準拠点のことです。最初の第三者の審級は親とか身近な人間です。その人間そのものに超越性が投射されているので、その人間の行為が正しい行為として現れます。成長するにしたがって、ちょっとずつ超越性が身体から剥離されて、抽象的な対象へと移されていきます。十分に抽象化が進むと、具象的な身体を超えて、抽象化された概念(例えば「自由」とか「普遍」とか)へと超越性が投射され、例えば「自由なるもの」が守られるべき象徴として、具体的な規範遵守行動が駆動されます。

要約

本編の前に、倫理に関する社会哲学の立場を、次の三つとして示しておこう。

  1. 伝統主義、ナショナリスト、共同体主義者
  2. 普遍的形式主義、モダニスト
  3. 多文化主義、ポストモダニスト

この三幅対は9・11テロに対し、どの立場も具体的な方策を示せなかった。これら三つの立場の失墜は、普遍性など実質あり得ないのではないか、ということを示唆している。

9・11テロに対する最も一般的な反応は、これは文明間の対立により引き起こされた、というものである。この同時多発テロは確かに、「資本主義」への攻撃である。だがこの対立は文明の外的な対立であるだけではない。外的であると同時に、資本主義という文明の内なる衝突なのである。

議論に一つの軸を通すために、広義の資本主義を定義しておこう。資本主義は、現在の価値体系と未来の価値体系の間を横断できる、包括的で普遍化した立場に参入することで剰余価値を得ている。この性質を元に、広義の資本主義を、「より包括的で普遍化した経験可能領域を獲得するべく諸個人が競争している社会システム」と定義できる。社会全体で見れば、資本主義とは、未来に向かって現在のシステムを自発的に更新し続ける、無限の更新運動である。

より包括的な領域を獲得しようとする資本主義の運動は、規範の対象をより高度に抽象化すると共に、規範の準拠点として機能する第三者の審級をも抽象化してしまう。審級の絶え間ない抽象化は、特に資本主義の中心と周辺において、審級の不在という困難として立ち現れる。これに応えるのがイスラーム原理主義であり、それ以上の抽象化が不可能な審級として、完遂されることのない普遍化され続ける審級をイスラームの神が代理するものとして、立ち現れているのである。アメリカを中心とする資本主義陣営においても事態は変わらない。資本主義という無限の更新運動は、アメリカにもイスラームにも、超越的な他者が存在しないのではないかという不安を引き起こす。この不安が「テロリストたち」の源泉となり、テロリストたちに対する「聖戦」を駆動してしまうのである。

ここまで資本主義による審級の終わることのない抽象化が、イスラームと西側諸国の間の対立、つまり文明の外的であると同時に内的でもある対立を生み出すことを見てきた。次に考えることは、いかにしてこの対立を解消するかである。文明間で共通する普遍性が期待できないのであるから、合理的で歪みのない討議での解消を期待することはできない。もちろん武力による解決は何の解決ももたらさない。しかしこれらの態度とは異なり、そして希望をもたらし得る活動が存在する。医師、中村哲の活動や人道的介入がそれである。彼らの活動を駆動するのは、罪の感情ではなく、羞恥のようなより根源的な「何か」である。キリスト教-資本主義において重要な位置を占める原罪とは逆の観念、何ら善いことを行っていないのに、初めから赦されているという観念がありうる。このようないわば原権利に基づく赦し、それを体現する実践こそが、資本主義を乗り越える方法になり得るのである。

9・11テロにおいては、アフガンに対する純粋で大規模な贈与を、全てのグループに公平に行えばよい。たとえテロリスト達に渡ったとしても、テロリスト達は以前と同じテロリストであり続けることはできない。自分たちへの無条件の贈与をしてくる相手に、決死の自爆を行うという、馬鹿馬鹿しい行いをしたりはしないはずである。一方われわれは、赦すことのできないことを赦すことにより、必然的に変容することになる。

ここで示したような、赦し得ないことへの赦しがなされたとき、私と他者の根本的な変容が導かれ、その瞬間、奇跡的に<普遍性>が到来する。どちらも変容しうるということ、「何かであること」を否定し無化しうるという徹底した否定性において、両者は共通している。この否定的な<普遍性>こそが、内と外に調停不能な衝突を孕むわれわれの世界に、「共存」の可能性を与えてくれるのである。

追記

上の要約では、資本主義の抽象化の運動がテロを誘引してしまった、ということの理論的な説得力が出てないです。ただまあ、本編でもそこら辺の説得力が十分にあったかというと、それほどでもないような。

話は変わりますが、要約だとやっぱり、大澤の文体の持つ魅力がわからないです。ページ冒頭で、本筋とは関係ない議論が多いと文句を言いましたが、直接関係のない箇所も示唆を多分に含みます。気になった人は著書の方を読んでみてください。

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むつきさっち

物理と数学が苦手な工学博士。 機械翻訳で博士を取ったので一応人工知能研究者。研究過程で蒐集した知識をまとめていきます。紹介するのはたぶんほとんど文系分野。 でも物理と数学も入門を書く予定。いつの日か。

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