ヒュームもロックと同じように「生得観念」をみとめていなかったそうです。確かに生得的な想像心像というものは考えづらいです。またロックの「抽象観念」(具体的な知覚から一般として抽象された観念)も批判しました。それは特殊的な観念が、「一般名辞 general term」と習慣的に連結されて、一般的なものと見えているだけ、とみなしていたようです。
ロックもヒュームも、観念が連合されて複合観念となることを認めているのだけど、ロックはそれを一種の誤謬のもととみなしていて、逆にヒュームは、知性を形成するはたらきをもつものとして、積極的な意味を与えています。単純観念が想像の中で自由に結合されると考えることも、その結合が必然的と考えることも、両極端な考え方と思われます。もうちょっと「ゆるやかな力」、結合の規則性のようなものを想定することができます。それは「類似 resemblance」と「時間あるいは場所における近接 contiguity」、さらに「原因と結果 cause and effect」です。
私の意識が捉えるのは、知覚以外のなにものでもないはずです。そして熟睡しているときには、知覚を捉えることはできず、私という人格が存在していません。私の身体は寝る前と後とで同一といってよいですが、人格の方は、寝る前後で一度意識が消えてしまっているので、寝る前と後とで同じとは断言できません。記憶を共有することで、私という同一の人格であると錯覚しているだけかもしれません。「人間とは、とらえがたい速さでつぎつぎに継起する、永続的な流れと運動のうちにある、さまざまな知覚の束あるいは集合であるにすぎない(nothing but a bundle or collection of different perceptions, which succeed each other with an inconceivable rapidity, and are in a perpetual flux and movement)。」(熊野純彦『西洋哲学史 下巻』第六章)。ヒュームがここで言っていること自体は、正しいと言うべきでしょう。