近代形而上学のイデア的認識
ロックやヒュームに飛ぶ前に、デカルト前後の近代形而上学をもう少しみてみましょう。近代の知覚や認識の議論には形而上学的な基盤があるはずで、主目的である認知に関する議論に関して見通しをよくしてくれるはずです。このページではスアレス、マールブランシュ、スピノザの3人の思想について、認識に関するごく一部の議論を抜き出してみます。
1.近代形而上学におけるイデア主義
スアレスはデカルトよりも前の人で、デカルトがかなり影響を受けたようです。デカルトにしろスアレスにしろ、この時代の哲学者は、かなりイデア的に考えているようです。熊野純彦によると、スアレスで注目すべき所説の一つは、個体化の原理にかかわる議論とのことです。
「個体が個体である場合には、それが他のものではないこと、この「否定」がなりたっている。「共通的本性 natura communis」に付加される否定、この差異は、それ自体、「実在的な或るもの aliquid reale」でなければならない。この実在的ななにかは「原因となる原理」であり、実体形相である(第十五問六節一項)。普遍的なものは多くのもののうちに存在する。個別的存在者は多くのものではなく、唯一のそのものとして存在する。ないというこの否定的な本性は、実在的なものであるはずである。」(熊野純彦『西洋哲学史 下巻』第2章)。
確かに個体が個体であるためには、その個体が他の個体では「ない」という否定性、もしくは個体と個体を隔てる差異が必要です。上の引用ではその否定や差異は、「実在的な或るもの」であり「実体形相」であると言われています。これらの言葉が使われていることからわかるように、「ない」という実体、イデアとエイドスどちらがよいかわかりませんが、「ないということ」ではなくて「ない」なるものがあると言われています。この徹底したイデア主義が、イデア主義者ではない人間にとって、近代形而上学がよくわからなくなる原因の気がします。逆に彼らがイデア主義者だとわかった上で読み進めれば、かなり見通しがよくなりそうです。
2.マールブランシュの「観念 idée」
注:2022/09/28に修正 。この節の後半は完全に管理人による推測です。
マールブランシュはデカルトよりちょっと後の人で、デカルトから結構な影響を受けたようです。「対象を知覚する」もしくは「認識する」ということを説明するのは、実はかなりの難問で、マールブランシュは、ものの本質たる観念(イデ)とその代理である完全なる神の観念(イデア)の関係で説明しようとしました。熊野純彦による解釈をまず抜き出してみます。
「「私たちに被造物を呈示する観念は、その被造物に対応しそれを代理する、神の完全性にすぎない」(第一巻第十四章二節)。ものを見るとは、そのものの本質である観念(イデ)によってものを見ることである。その観念は、神においては、その完全性である観念(イデア)なのであるから、「私たちはすべてのものを神のうちに見る nous voyons outes choses en Dieu」(第三巻第二部第六章)。」(熊野純彦『西洋哲学史 下巻』第2章)。
マールブランシュは認識を四つにわけて考えたようで、「観念による、たましいの外部にあるものの認識」について、次のように述べています。
「私たちをあやまらせるのは感覚ではない。性急な判断によって私たちをあやまらせるのは、私たちの意志である。たとえば光が見られているとき、ひとが光を見ていることは確実である。原罪が犯されるまえであれ、あとであれ、暖かさが感じられているときには、人がそれを感じていると信じるのは、すこしもあやまっていない。だが、感覚される暖かさが、それを感覚するたましいの外部にあると判断するとき、ひとはあやまるのである。」(同上)
「観念(イデ)」を日本語の観念だとすると、ものの本質が観念(イデ)であるというのは奇妙なことではないでしょうか。観念(イデ)はやはりイデアのようなもの、完全な神の観念(イデア)の不完全なコピーのようなものと考えた方がよいでしょう。「私たちに被造物を呈示する観念」とあり、ものはものとしてあるのですがイデアをもとに作られたイデを物質的次元とは別に持つので、人間はそのイデの方を認識している、という考え方に思えます。そうすると精神による物体の認識という難問を、イデアを仲介することで解消しようとしたと解釈できそうです。
3.心身の結合(心身相関)
注:2022/09/28に修正 。
スピノザもデカルトから引き続き、心身の結合を問題としています。スピノザは、「心身の関係は属性のあいだの並行関係」であると考えたようです。
まず、神だけが自己原因で、同時に、他のすべての実体の原因だとします。思考も延長も神の「属性」で、神の無限の属性のうち、人間の精神が認識できるのはこの二つの属性のみです。結局、「人間にとっては思考と延長のみが可知的なのである(シューラー宛て、一六七五年七月二九日づけ書簡)。」。 「両者はともに神を原因とするかぎりで一致している(『エチカ』第二部定理十三、系・註解)。」(熊野純彦『西洋哲学史 下巻』第2章)
これらの記述からは、デカルトと同様に、人間理性は神の理性を共有することで成り立っているので、両者で共有される思考と延長のみが人には知られうるという考え方が見て取れます。そして「精神も延長もそれぞれに必然的な系列のうちにあるのだから、両者のあいだには並行関係だけが可能となる。」(同上)
スピノザが用いた言葉は「属性」ですがマールブランシュと類似の考え方に思えます。ただし精神と延長の関係は並行関係です。「並行」という言葉からは、神経生理学における平行論、つまり脳・神経系と心的現実は平行して現れるとする考え方を連想します。平行論は、事実として心身の対応関係を認めていますが、脳・神経系を単純に心的現実の原因と考えることを保留としていて、実質心身相関の問題を解くのをあきらめているといっても過言ではありません。近代の哲学者たちの思想が心身相関の問題の解決を与えるものであるか、正直なところよくわかりません。
参照文献1:熊野純彦『西洋哲学史 近代から現代へ』(岩波書店)
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