斎藤環、与那覇潤『心を病んだらいけないの?』書評と要約 - 趣味で学問

斎藤環、与那覇潤『心を病んだらいけないの?』書評と要約

評価:

臨床精神科医の斎藤環と歴史学者の與那覇潤による対談集『心を病んだらいけないの?うつ病社会の処方箋』の書評です。與那覇はうつ病になってからは歴史学者としての仕事はしていないみたいなので、著述家と言った方がよいかもしれません。

この対談集における内容の密度の濃さは素晴らしいものがあります。私は対談集好きで対談集はよく読んでいるんですが、今まで読んだ対談集の中で間違いなく最も示唆に富む本です。ただし対談集という形式のため、どうしても全体の統一性は犠牲にされている感じはします。そんなこともあって全体を要約するのは難しいので、各章ごとにまとめてみることにします。

要約

第一章 友達っていないといけないの?

第一章はヤンキー論です。なぜいきなりヤンキー論かというと、ヤンキーのエートスには今の時代を生き抜くための技法という側面があるからです。ヤンキーのエートスを、「右肩下がりの時代が来るのをわかっているのに過去を引きずっていたらとても耐えられないので、なんとかうつ状態に陥らずにこれからの時代を生き抜くための予防的な対応」とみなすこともできます。

與那覇はヤンキー的な寛容さに承認の可能性を見ようとしていますが、斎藤はやや否定的です。ヤンキー的な寛容は「他者の他者性」を排除して可能になるもので、「独立した個人として尊重する」ということが抜け落ちてしまっています。ヤンキーのエートスを理解する手助けになってくれるのが、山本七平による「日本教」(人間教)の概念です。これは一般的な日本人においては、完全なる神ではなく、(均質化されたイメージでの)人間を信仰の対象としてきたということを指す言葉です。人間教の帰結として、日本においては、キリスト教圏などに比べて「条件なしの承認を与える場」の乏しさにつながっています。

第二章 家族ってそんなに大事なの?

人間教による同調圧力を、家族という領域で体現する「標準家族」の幻想についてです。標準家族なる模範を作って全員がそうであれと強制する態度が、政治的立場のいかんによらず見受けられて、この態度こそが「右傾化」とみなすことができます。なぜか前近代的な家父長幻想が、時代にそぐわなくなるにかかわらず強化されていて、こういった同調圧力が再生産されることが、少子化や家庭崩壊につながっているのではないかと考えられます。

第三章 お金で買えないものってあるの?

第三章は承認がビジネスになってきていることに関連した話です。承認ビジネスは本当に承認を売買しているのか、というとはっきりしたことを言うのが難しいです。人間関係は、お金が介在すると途端に価値が下落してしまうものの代表だからです。また承認強者の方も「期待されたキャラ」を演じ続けなければならず、ある意味で典型的な「共依存」に陥る危険があり、単純に弱者からの承認の搾取のように考えることはできません。

第四章 夢をあきらめたら負け組なの?

第四章は、日本では「あきらめさせない装置」が機能し過ぎではないかという話です。あきらめさせない装置の代表格は日本の教育そのものです。口では「無限の可能性」を言いながら、一方で「協調第一主義」によって支配する、ある種のダブルスタンダードの問題として捉えることができます。万能感の副作用として、意欲や行動によって支えられていない場合には、人の行動を阻害して無気力化する作用のほうが強いことが挙げられます。

精神医学でいう「去勢」は「人間の心の成長を理解するためのひとつのモデル」で、「幼児が抱いている万能感」を捨てて、前に進むための言葉です。結局のところ「あきらめさせない」装置に対抗するものとして挙げることができるのは、身体の有限性による切断です。ただしカルトや高校野球のしごきなどに利用される、「身体を媒介として精神を無限性に開いていく」という奇妙な回路に堕してしまう危険性があります。

第五章 話でスベるのはイタいことなの?

「発達障害」は障害か否かのはっきりした線引きはできなくて、程度でしか診断できない「ディメンジョン診断」に含まれます。「発達デコボコ」という言い方もされて、これは「人はすべて、多かれ少なかれ発達の問題を抱えているが、日常生活に問題が生じるレベルの場合は発達障害と診断しよう」という発想のことです。

発達障害は「あきらめる装置」として使われ出していますが、実際には発達障害は「能力がこれ以上伸びない」という意味ではなくて、重要なのは発達障害「である」ことを踏まえて今後どう成長していくかを考えることです。

第六章 人間はAIに追い抜かれるの?

AIが人間に追いつくとか現状は夢物語で、実際はむしろ人間がAI化していると言えます。「構造主義」や「ポスト構造主義」は、無意識や社会関係に潜在している関係性の構造のほうが、行動のありようを決定づけていると考える立場のことで、彼らは「人間主義による抑圧」を否定したのですが、それに代わる環境調整で行動を誘導するような方法は人間のAI化を招くだけでした。結局、目ざすべきは反人間主義ではなく、価値規範抜きの人間主義という結論が出てきます。

第七章 不快にさせたらセクハラなの?

セクハラ問題は同じことが繰り返されています。その一方でセクハラチェックの精細度は格段に上がっていて、逆に新たなバックラッシュを招きつつある状態です。失敗の原因の一つは行動主義的なマニュアルで、それとは異なる意味への配慮を伴う指針が必要になります。「意味」が含まれるようにハラスメントを定義すると、「相互に意味の食い違いがあるとわかったときに、相手側が抱いてきた意味を一方的に棄却して、自分の側の意味にのみ従うよう強要する行為」と考えることができます。

第八章 辞めたら人生終わりなの?

事実の確認として、うつ病は薬物治療だけでは改善はするけど治しきれず、SSRIによる改善率は80%で寛解率(患者のうつ症状がすべて消える割合)は40%です。うつ病自殺の問題を解決するためには、単純に残業時間とかだけで判断するのではなく、「努力の甲斐があった」と思える環境を準備できたかどうか、そういったことも加味して判断しないといけません。うつ病への対処としては、社会関係資本を得ることが重要で、結局のところ、ダイバーシティこそがセーフティネットと言えます。ただしこのダイバーシティは、ホームレスやアルコール依存症のような「負のスティグマ」を抱えた少数派の人たちも包摂されるものでなくてはなりません。

終章 結局、他人は他人なの?

個人だけを見て治そうとしてても問題は解決せず、むしろ個人が訴えるつらさや症状を、時代背景や周囲の環境と一体をなす連続した存在として捉えて、そうした「つながり」に働きかけることが大事なのではないか、と考えられます。そこで「対話を通じた回復」が目指されているのですが、重要になってくるのはポリフォニー(多声性)です。自分と相手との間には決定的な違いがあり、しかしどんな相手にも個別の尊厳が備わっていること、これらを身体的に理解することが目指されています。ヨーロッパの実存主義的な個人主義とは異なる、他者が内部に織り込まれて個人としてあることを前提にした個人主義をどう守っていくか、これが本書で確認された課題になります。

追記

こうやって章ごとにまとめてみると、内容が多岐にわたっていて、やっぱり全体をまとめるのは難しいです。ただ、どの問題においても「人間教」の言葉で示される独特の全体主義的強制が原因としてあって、問題解決のために「自分とは決定的に違う、しかし誰しも個別の尊厳が備わっていることを前提にした個人主義」が目指されていることは通底しています。

この本は5年ほど前に出てて、この本で提示された問題が今まさに社会問題として現実化してきています。残念ながらこの本で解決策までは提示できてないですが、間違いなく問題の本質を見定める手助けとなってくれる良書です。

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むつきさっち

物理と数学が苦手な工学博士。 機械翻訳で博士を取ったので一応人工知能研究者。研究過程で蒐集した知識をまとめていきます。紹介するのはたぶんほとんど文系分野。 でも物理と数学も入門を書く予定。いつの日か。

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