1.中世の哲学
西洋哲学で最も顧みられることのないのが中世哲学です。特徴としてキリスト教神学と深く結びついていること、プラトンやアリストテレスの影響が強いことが挙げられます。中世哲学は古代ギリシア哲学と近代哲学を結ぶ重要な役割を果たしたのですが、近年は中世哲学それ自体の中に独自の重要な思索が含まれていると言われています。
私の関心の少なさと刊行されている著作の少なさから、このサイトではごく少数の哲学者の紹介だけさせてもらうことにします。
2.自然区分論
中世はルネサンスの時代であったことがわかっています。有名な自然区分論を述べたエリウゲナも、古代ギリシア・ローマの哲学に通じ、ルネサンスに貢献したうちの一人です。「自然」の四分割についてエリウゲナの記述を下に引用します。
“自然を分割すると、四つの差異によって、四つの種に分割することができると思われる。その最初の種は創造し創造されないもの、第二の種は創造され創造するもの、第三の種は創造され創造しないもの、第四の種は創造せず創造されないものである。この四つの種のうちふたつの種は、相互に対立している。つまり第三の種は第一の種と、第四の種は、第二の種と対立する。けれども、第四の種は、それが存在することがありえない不可能なことがらに属しているのである。”(『ペリフュセオン』第一巻第一章、熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』第13章、p.208)
ここで第一の種が神で、第二の種がイデア、第三の種が被造物の世界のことです。第二の種「創造されて創造するもの」に生命を連想した人もいるのではないでしょうか。創造されて創造するものをイデアとみなすことに、プラトンの強い影響が読み取れます。第四の種、「創造せず創造されないもの」に対して、もっとも想像しやすいのは「無」ではないでしょうか。エリウゲナによると、この無であるとしか思えない第四の種も、神のこととされています。そうすると、神と無が同じものであると、彼は述べていることになります。
神がすべてのはじまりだとすると、無はすべての終わりであることでしょう。神と無が同じものであるならば、すべてのはじまりがおわりでもあるので、すべてのものはすべてのはじまりへと還る、という言い方もできそうです。
エリウゲナが神と無が同じと考えた理由は次のようなものです。一般のものについて当てはまる述語は、神については比喩的にしかあてはまらないはずです。例えば神は無限であると考えられているのだから、有限な存在を記述する言葉が、無限な神にそのまま適用できるかどうかわかりません。そうすると、有限な存在を超えた神を記述する言葉がありえないので、結局、神は非存在、無として記述することになります。神が無である言われるのは、むしろ神が人間の思考を超える「存在以上のもの」であるからです。
3.参照文献と略年表
- 参照文献:熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波新書) 書評と要約


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