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古代の懐疑論

1.古代の懐疑論

ヘレニズム期の哲学において、近代や現代の思想に類似する考え方が見られることを示しました。このページは、近代哲学で重要な役割を果たしたデカルトの懐疑論と類似する、古代の懐疑論についてです。実際デカルトの懐疑論は古代の懐疑論が典拠となったと考えられています。

ピュロンの懐疑論などと呼ばれる古代懐疑論ですが、ピュロンについてはほとんどなにもわかっていません。古代懐疑論の特徴として、存在と現象、現象と思考の峻別が挙げられます。その峻別によって生じるのが「判断中止」であり、判断中止へといたる方策が「トロポス」(「言いまわし」という意)と呼ばれています。まず初めにアカデメイア出身のアイネシデモスによる十個のトロポイ(方式)、その後追加されたアグリッパによる五個のトロポイ、名前の知られていない後代の者による二個のトロポイの、あわせて十七のトロポイが伝えられています。そのうち二つのトロポイに関連する議論を示しておこうと思います。

1.1 第一のトロポス

十の方式のうち第一のものは「動物相互のちがいのために、おなじ事物に由来するからといって、おなじ表象(あらわれ)が感受されるわけではないことを示す議論」です。熊野純彦による引用をここでも引用しておきます。

「おなじことは、他の感覚についても語りうる。殻に覆われている動物、肉に覆われている動物、棘に覆われている動物、羽毛や鱗に覆われている動物などが、触覚の面で、おなじような動きかた[感じかた]をするなどと、どうして言うことができようか。また、聴覚の通路がきわめてせまい動物と非常にひろい動物が、あるいは、耳が毛で覆われた動物と、剝き出しの耳をもつ動物とが、聴覚の点でおなじような認識を得ているなどと、どうして言えよう。じじつ、私たちにしても、耳を塞いだときと、塞がずに用いるときとで、聴覚の点でことなる動きかた[感じかた]をするのである。」(熊野純彦『西洋哲学史』上巻、143ページ)

この記述から生物学者ユキュスキュルの「環世界」を連想した人もいるかもしれません。ユキュスキュルは、動物種ごとに知覚器など身体構造の性質に応じた独自の知覚世界が存在すると考え、その動物種に現れ出る世界の様相を「環世界」の言葉で表しました。上記引用の考え方を徹底すれば、環世界の概念へとたどり着くでしょう。

1.2 「ほらふき男爵」のトリレンマ

トロポスに含まれる数学批判には、現代の批判的合理主義と正確に対応するものがあります。そのうちの一つ、「演繹的な正当化が、それ自体は根拠をもたないことを示そうとする議論」(「ほらふき男爵」のトリレンマ)を示しておきます。

「一、ある原理をべつの原理によって正当化しようとするとき、その原理自体の正当化が必要となり、無限後退に陥る。二、この後退の過程を中断して、出発点となる原理を仮設すれば、それ自体は正当化されない第一原理を設定することになる。三、正当化する原理と正当化されることがらのあいだに循環する関係を想定し、相互に相手を正当化すると考える場合には、演繹的正当化はすでに破綻している。」(同上、146ページ)

近代において、この懐疑を継承することになるのがデカルトです。演繹による証明のみが明証性を与えてくれると考えるならば、議論の出発点となる公理をも演繹で証明しなければなりませんが、循環に陥らずに証明するためには公理のための公理が必要になり、無限後退に陥ってしまいます。デカルトはここからコギトへとたどり着くのですが、すでに古代の懐疑論において、その端緒が示されています。

  • 参照文献:熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店)

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むつきさっち

物理と数学が苦手な工学博士。 機械翻訳で博士を取ったので一応人工知能研究者。研究過程で蒐集した知識をまとめていきます。紹介するのはたぶんほとんど文系分野。 でも物理と数学も入門を書く予定。いつの日か。

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