接線の方程式

微分係数の値は、その関数のその点における接線の傾きを示しています。直線の方程式は傾きと通る点がわかれば一意に決まるので、微分を用いて関数の接線の方程式を求めることができます。関数f(x)上の点(a,f(a))でf(x)に接する接線の方程式は、次の手順で求めることができます。

  1. f(x)の導関数f'(x)を求める。
  2. f'(x)にx=aを代入して、x=aにおける微分係数f'(a)を求める。
  3. 接線の傾きf'(a)、通る点(a,f(a))がわかったので、y-f(a)=f'(a)(x-a)として接線を求める。

以上のように手順は簡単です。

具体例、「f(x)=x3-2x2-3x+1上の点(-1,f(-1))でf(x)に接する接線の方程式を求めよ」を解いてみます。

\begin{align} f'(x)=3x^2-4x-3\\ よって接線の傾きはf'(-1)=3\cdot(-1)^2-4\cdot(-1)-3=4\\ f(-1)=(-1)^3-2\cdot(-1)^2-3\cdot(-1)+1=1より、接線は点(-1,1)でf(x)に接する。\\ 以上より、求める接線はy-1=4\{x-(-1)\}\\ y=4x+5 \end{align}

グラフにすると図1のようになります。

もう一題、「f(x)=-x2+3x+6上にない点(-2, 0)を通るf(x)の接線を求めよ」を解くことにします。こちらの問題では接点の座標が与えられていないので、上で示した手順をそのままでは使えません。接点の座標がわからないので、いったん接点を(a, f(a))とおいて接線の方程式を求め、それが点(-2, 0)を通るとして方程式を解く必要があります。解答は下のようになります。

\begin{align} f'(x)=-2x+3より、f(x)上の点(a,f(a))における接線の方程式は\\ y-f(a)=f'(a)(x-a)\\ y-(-a^2+3a+6)=(-2\cdot a+3)(x-a)\\ y+a^2-3a-6=(-2a+3)x+2a^2-3a\\ y=(-2a+3)x+a^2+6\cdots①\\ この接線が点(-2,0)を通ることより、x=-2、y=0を代入して\\ 0=(-2a+3)\cdot(-2)+a^2+6\\ a^2+4a=0\\ a(a+4)=0\\ よってa=0,-4\\ したがって求める接線の方程式は①にa=0,-4をそれぞれ代入して\\ y=3x+6,y=11x+22\\ \end{align}

求める接線が2本、自動で求めることができました。

図で示すと図2のようになります。

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稲葉振一郎『経済学という教養』書評と要約

評価:

稲葉振一郎の「素人の、素人による、素人のための経済学入門」、『経済学という教養』の書評です。結論を先に言うとこの本、全然素人向けじゃないです。ただし公共性の議論で忘れ去られがちな経済的側面を考慮して書かれた、社会学の良書です。全体を通して話の流れが読み取りづらかったりして、さすがに経済学素人が読むのはつらいです。私は経済学関連の本は10冊近く読んでるので、ずぶの素人とまではいかないのですよね。他の本で読んだ知識使って何とか理解できたけど、経済学の知識ゼロではたぶんよくわからないと思います。

そんな決して読みやすくなく意図に反して素人向けでない本書ですが、この本でしか展開されていないであろう重要な議論が山盛りなので、評価は3.5です。こういう多分野にまたがる仕事は、社会学者や哲学者じゃないと書けないんじゃないでしょうか。

私が読んだのは増補版ではなく最初に出たハードカバーの方なので、増補部分は要約に入ってないです。もし増補版を読むことがあったら、後で要約に付け足そうと思います。

全8章構成で、各章の要約を下に示します。

各章の要約

第一章 こういう人は、この本を読んでください

この本は「素人の、素人による、素人のための経済学入門」を目指して書かれています。こういう本を出したのは、「玄人による、素人のための」本に欠けている何かを提供したい、という動機からです。またこの本は「経済学入門」であって「経済入門」ではありません。もちろん経済学は経済を理解するためのものでもあるのですが。

第二章 出発点としての「不平等化」問題

経済学に入る前に、不平等と経済学の関係について考えてみます。日本でも80年代くらいから、階級社会化の傾向が強まってきました。階級社会といっても、「階級ごとに自立した別々の社会」ができるわけではなくて、経済的には一つの社会として階級間で関わりあうことになります。ここでいう不平等というのは、世代から世代へと受け継がれていく、かなり長い時間における格差の再生産のことです。不況と不平等の拡大の関係など、現代の主要問題とその対処法の是非を判断するには、経済学が必要となります。

第三章 素人の、素人による、素人のための、経済学入門

物価全般が下落する現象をデフレーション、略してデフレと呼びます。価格全般と関係する基準点は、賃金または貨幣として考えられています。この基準点を賃金とするグループでは、賃金(労働の価格)の下方硬直性により、労働力市場の調整機能が働かないため、失業が解消しないと考えられています。貨幣を基準点と考える立場では、物価の下落は貨幣に対する下落で、貨幣の交換価値それ自体を欲する「流動性選好」により、均衡状態が最適の状態からずれているためにデフレが続くと考えられています。経済学派は古典的ミクロ経済学、上の前者に当たる「賃金・価格調整」説派、後者の「流動性選好」説派の三つに分けることができます。この本では「賃金・価格調整」説派を実物的ケインジアン、「流動性選好」説派を貨幣的ケインジアンと呼ぶことにします。

第四章 日本経済論の隘路

2004年当時では小泉内閣の「構造改革」の是非が問題となっていました。構造改革主義者は概ね実物的ケインジアンにあたり、彼らの考え方は次のようなものです。

19世紀末以降、軽工業から重化学工業へ移行して、企業の官僚的組織の発達、長期雇用と福利厚生の充実、資本市場や巨大な資金力を持つ銀行への依存の高まり等を経て、大企業主導の産業構造が市場の調整能力を弱めた。日本型経済システムはそのような大企業による製造業型の産業構造に適しており、また戦後日本経済の課題が「追いつき(キャッチアップ)型工業化」であったことから、政府による産業政策が機能し80年代からの経済発展の原動力となった。しかしキャッチアップ終了後、さらに「ハイテク」の産業構造に変わったことにより、かつての方法に固執した日本企業も政府も現代には不適切な方法を取り続けている。これが不況の原因だ。

第五章 左翼のはまった罠

マルクス主義者は実物的ケインジアンの立場であり、ケインズ政策を消極的にしか支援しません。そして実物的ケインジアンどうし構造改革主義者と考え方はさして変わりません。両者ともモラリズムに陥ってしまったため、「問題は一般的なルール自体、原理原則のほうにあるかもしれない」という視野がとれなくなってしまいました。現代に続く日本の不況の原因を一言で言い表すのは難しいですが、構造改革主義者の考え方には妥当な部分が多く含まれるのは確かです。ただしマクロ的需要不足という考え方をまったく含んでいないので、方法論としては構造改革主義者に同意することはできません。

第六章 市場経済と公益

これまで実物的ケインジアンの立場で考えてきたので、今度は貨幣的ケインジアンの立場から不況とそれに関連する問題を考えてみます。実物的ケインジアンの立場ではパレート最適な状態が達成可能なことを前提としていますが、貨幣的ケインジアンの立場からすると、ケインズ的不況では「弱肉強食」「ゼロサムないしマイナスサムゲーム」となってしまうので、パレート最適の状態ではありません。市場原理の価値は、「自由」「規律」といった面からも考えることができますが、「幸福」「安全」をないがしろにして追及されるべきではありません。不況では「弱肉強食」のような不平等の状態に陥ってしまうので、市場原理の追求は無条件に許容されるべきではありません。

第七章 マルクス経済学への最初にして最後の一歩

マルクスは「商品がただのモノではなく「商品」であるのは社会関係の中に置かれているからだ」ということについて深く考えた人です。ケインズとマルクスには共通する洞察があるはずですが、マルクスの貨幣観を継いでなおかつケインズと接続するような試みは、残念ながらまだ不十分です。

マルクスは「労働」と「労働力」の区別をつけ、労働力という商品とその対価である賃金の関係から、資本家による搾取を描き出しています。またマルクス理論は歴史理論でもあり史的唯物論と呼ばれています。20世紀は、市場経済の論理=資本の論理が労働と消費生活の内容までも変えていった時代だと言えます。マルクス主義の問題点としては金本位制への固執、マルクスの問題点としては共産主義の具体的な形を描かなかったことが挙げられます。マルクスは資本主義経済を経由したことで、かつての調和と資本主義時代での個人の自由、双方が達成された理想の世界が共産主義社会として訪れると期待していました。しかし具体的な運営方法まで考えていたわけではないので、ある意味で必然的に、実在した社会主義国は運営に失敗することになります。失敗の理由の一つとして、計画経済では民主主義的意思決定との関係を保つことが難しい点が挙げられます。

第八章 経済学と公共性

公共財とは「排除不可能性」(みんなが使える)と「非競合性」(利用したいときに使える)が共に成立しているものです。公共財についてはその性質から、不平等自体を問題として問うことができます。「景気」を市場経済に「内部化」できない公共財と考えることができます。景気や不況のような個別的主体でどうにもならなさそうなテーマは、基本的には公共政策の問題と考えられます。もしミクロ的な経済主体である普通の市民が無力な状態に追い込まれているのだとすれば、確かにそれは「公共性の喪失」の状態であると考えられます。貨幣的ケインジアンの立場に立てば、個別の経済的主体にもケインズ政策への関与が可能、という考え方が出てきます。労働組合に注目すると、日本中の労働組合が一企業を超えて、「マクロ的労使協調」として機能することができれば、労働組合の賃上げ運動による購買力の増加、つまり需要の増加により、結果として物価の上昇につながっていくと期待できます。「責任問題」まで考えると基本は政府にケインズ政策をゆだねるべきですが、実力ベースで考えるのであれば、労働組合のような自然発生的な経済主体にある程度「草の根ケインズ政策」を任せてもよいとも思われます。

公共性への回路を考えるとき、個別の主体が「教養」としての経済学を持つことは必要と考えられます。

追記

上の要約を見ると、やっぱり各章のつながりがわかりづらいですね。とりあえず稲葉の主題は経済というよりも公共性にあることがわかります。不況の原因として、個人の心理的過程であると同時に社会全体の傾向でもある「流動性選好」を重視する点で、やはり社会学者による経済学批判だと言えます。マルクスとケインズをつなぐ仕事を、稲葉自身がこの本でもっとやりたかったのかもしれません。それは果たされなかったわけですが、少なくともその困難かつ魅力的な理論を考えるにおいて、とっかかりとなってくれそうな本ではあると言えるでしょう。

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大澤真幸、木村草太『憲法の条件』書評と要約

評価:

この本は大澤真幸と木村草太の対談で2015年の本ですが、日本国憲法に関して今まさに必要な視点を与えてくれます。憲法についての対談だけど、どちらかというと法学者の木村草太の方が聞き手に回ることが多い印象です。とはいっても法に関して具体的な話をしているのは木村草太の方です。大澤は一段抽象化して話を広げながらつなげていく、という役回りをとってる感じです。

一番大きく取り上げられているのは憲法九条で、これは当時の集団的自衛権に関する情勢が影響しています。それ以外にも「空気」の支配とかヘイトスピーチとか、憲法や国会に関わる事例について、わりと広めに議論が展開されてます。でも法を法たらしめるものは何かという問いを根底にしている点で、すべての議論がつながってます。そして憲法九条を考えるうえで、国際公共価値にどう寄与するかを考えるべきという点で二人の意見は一致しています。ウクライナ危機や中国情勢で憲法九条が再び脚光を浴びる今だからこそ、法のはじまりの視点を含むこれらの議論を参照にすべきでしょう。

以下、章ごとの要約をまとめます。対談集ですが、かなりの部分で二人の意見は収束していっているので、どちらの発言かはとくに示さないことにします。

章ごとの要約

第一章 「法の支配」と「空気の支配」

法がその社会で機能するための前提条件があり、それは「法の支配」と呼ばれています。法が法として機能するためには二つの条件があって、一つは固有名を使ってはいけないこと(抽象性)で、もう一つは、形式的な手続きで成立すること(形式性)です。一国で見た場合は、超越的(人を超えて人の行動を規定する)であるはずの法を人間が作り出すという、二律背反的ともいえる側面があって、この対立的な二つの側面を満たす条件が「抽象性」や「形式性」だと考えられます。

第二章 幻想の「国体」と日本国憲法

法学者から見ると、日本国憲法は、人権保障もあるし三権分立や地方自治も定められた「普通」の憲法典です。しかし日本での日本国憲法の捉え方は両極端です。その状況に対し、第二次大戦での敗戦に戻って考える必要があります。極東軍事裁判はある意味かなり寛容で、戦争責任をA級戦犯に限定することで日本人全般は免罪されました。しかし天皇の戦争責任が霧散すると同時に、日本の民衆に加害者意識が残らなかったという問題も生じました。さらに敗北も否認して、一種の津波のようなもの、南海のゴジラからアメリカが救ってくれたと考えているような状況が生み出されてしまいました。

憲法が機能するには、普遍に命を宿す物語が必要です。日本国憲法の大元になる敗戦を認めることができないので、物語の担保になる死者の視線も排除してしまい、日本国憲法が機能してくれません。戦前の大日本帝国憲法では物語が今よりは機能していて、その物語の中心が「国体」でした。戦前でも国体という言葉が何を指しているかよくわかっていなかったのですが、その空疎さを隠ぺいする装置はあって、今は隠ぺいさえできていません。以上を踏まえて考えるべきは、死者の視点ではなく未来の他者の視点です。

第三章 ヘイトスピーチ化する日本

ヘイトスピーチに関して、言論の自由は守られなくてはならないですが、そのままでは言葉で傷付けられてしまう人が出てきてしまいます。ヘイトスピーチをしている人たちのほとんどは、在日コリアンに対する実際上の恨みをもっているわけではないし、彼ら自身がそれをわかっています。彼らに共通することの一つに、普遍が嫌いだということがあります。ヘイトスピーチを行う根源には愛情欲求があって、最終的に愛情を求めているのは「国」に対してです。一般に愛が感じ取られるには断固とした分け隔てが必要で、そのため普遍主義のみんなを愛するという立場が欺瞞として見えてしまいます。そして彼らは在日コリアンに差別的な振る舞いを取ることで、国から愛されようとしているとみなせます。

現実的には、「している側」の問題であるので、ヘイトスピーチでしか満足を得られない人を大量に生み出してしまう社会の構造やあり方自体を変えるのが最もよい対策です。ヘイトスピーチに垣間見えるのは、日本全体で自信を持てないことが起因して様々な問題が生じていることです。憲法を一つの核として日本人の自尊心やプライドがはっきりと根につけば、ヘイトスピーチのような問題は消えていくと考えられます。

第四章 偽りの集団的自衛権

現在の国際法では武力行使一般が違法とされていて、国家による武力行使一切を禁じるのが原則です。しかし侵略国が現れたときのために、「侵略国に対応する制度として、「集団安全保障」というものが用意されています。国連が措置をとるためには安保理決議が必要で、安保理決議までの「つなぎ措置」として、個別的自衛権と集団的自衛権が認められています。日本国憲法九条で一切の武力行使を禁止しているというところでは、憲法解釈学説はほぼ一致しています。

日本政府には国民の生命や生活等を守る義務があるので、日本が武力攻撃を受けた場合には、国民を守るためにどうしても必要な反撃は許される、とこれまでは理解されてきました。これに対して集団的自衛権に関しては、憲法の条文をいくら探してもそれを許容するような表現がありません。憲法には個人と国家の関係を規定している法律ということの他に、「日本人が共有する歴史物語としての性質」、「諸外国に向けた外交宣言としての性質」があります。集団的自衛権や憲法九条に関する議論は、国際公共価値を出発点にするべきと考えられます。

第五章 議論なき議会と「空気」の支配

日本の議会には機能不全が起きていて、自分とは違う立場の人を無視してしまっています。政治というのはそもそも、自分とは異なる価値や考えをもっている他者と合議し、公共的な決定をつくりだすプロセスなので、他者と向き合わないと話が始まりません。

ハンナ・アーレントは、多様性のある状況を複数性と表現し、非常に肯定的に捉えています。しかし日本の場合は全員一致が望ましい状態とされています。日本での全員一致は、実際には日本人全体ではなくそこに一緒にいる人の間だけにおいてです。投票では各投票者が「一般意志はXを欲しているだろう」と推測することについて投票する、ということがルソーにおいて前提になっています。「命令委任の禁止」は選ばれた国会議員には一般意志についての考え方に基づいて行動するために、命令委任の束縛から解放する、というものですが、実際には期待されることとは逆に個人的な価値観のぶつかり合いになってしまっています。そうすると最終的に結論に持ち込むためには、対立のない世界をつくり、議論したふりをするしかありません。

差別は「人間の類型に向けられた否定的な感情」という形で定義できます。人間を類型で見ることは、その人の個性を無視する結果につながる可能性が高く、その場合は「個人の尊重」という憲法の基本理念に反します。ヘイトスピーチに対してレッテル貼りして類型化して攻撃してしまったのでは、相手と同じです。相手の立場に立つことが重要で、それは「それぞれの立場を括弧に入れて、いわば普遍性の立場で考えるということ」です。

第六章 憲法を私たちのものにするために

日本人は敗戦を拒絶してしまったために過去の他者の視線を基付けにすることができません。そのため「未来の他者」の願望を受け取ることが必要で、それができれば日本国憲法に命を吹き込むことができるかもしれません。法は公共的価値を探すため、他者との共存のために存在している、という原則を持ちます。そして日本国憲法は、日本の法律なので日本政府や日本人についての法ですが、同時に普遍的な妥当性を目指すものでもあります。

憲法のこの独特の矛盾が最もはっきり表れるのは憲法九条です。憲法についてはどの立場の人も、いまの憲法に足りないところ、これから向かうべき方向性を具体的に模索し、魅力的な「改憲案」を出すべきです。リベラル派も変わりはありません。「こういう世界をつくりたい」という前向きな声に答えて、様々な議論をかわせるような文化を築いていくべきときが来ています。

追記

一応話がつながるように要約した結果、いろいろな話題が飛んで行ってしまいました。それはもう仕方ないので、気になる人は本の方をどうぞ。

けっこういろんな方向に話が飛んでいってる感じはするのですが、大澤真幸との対談なので、やっぱり「普遍性」と未来に向けてどう変えていくか、というところは本を通して共通しています。今現在のウクライナ危機に関連して憲法九条改正が叫ばれるような状況でも、というよりも今そのような状態だからこそ、国際公共価値という普遍性の視点を持ちたいものです。

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導関数

関数f(x)のx=aにおける微分係数をf'(a)と表記しました。これは特定のx座標aにおける微分係数なので、もとの変数xで表記しておいてその都度x座標に特定の値を入れればよい、と考えたものが導関数です。実質、微分係数と導関数は同じものと言ってよいです。そして導関数f'(x)を求めることを、微分すると言います。導関数の定義式は微分係数とほぼ同じで、下のものとなります。

\begin{align} f'(x)=\lim_{h \to 0}\frac{f(x+h)-f(x)}{h} \end{align}

導関数は上の式を使って求めればよいですが、毎回これを計算するのは大変です。したがって、あらかじめ代表的な関数に対して導関数を求めておいて、実際にはそれを公式として使って具体的な導関数を求めます。数Ⅱの微分で覚えておく必要があるのはごく少数で、導関数のほとんどは数Ⅲの微積で覚えることになります。数Ⅱで覚える導関数と微分の公式は下のものです。

\begin{align} (x^n)’=nx^{n-1} 特に(x)’=1(nは自然数)\\ (c)’=0 (cは定数)\\ \{kf(x)\}’=kf'(x)\\ \{f(x) \pm g(x)\}’=f'(x) \pm g'(x) \end{align}

一番下のものは、関数の足し算と引き算の形をしているときの全体の微分は、それぞれの関数ごとに微分して足すか引くかすればよい、ということを意味しています。f(x)g(x)やf(x)/g(x)の掛け算、割り算の場合には適用できないので気をつけてください。

ここでf(x)=x(x2+1)+2の導関数f'(x)を、定義式と公式の両方を使って計算してみます。まず定義式を使って求めると下のようになります。

\begin{align} f'(x)=\lim_{h \to 0}\frac{f(x+h)-f(x)}{h}\\ =\lim_{h \to 0}\frac{(x+h)\{(x+h)^2+1\}+2-\{x(x^2+1)+2\}}{h}\\ =\lim_{h \to 0}\frac{(x+h)(x^2+2hx+h^2+1)+2-(x^3+x+2)}{h}\\ =\lim_{h \to 0}\frac{x^3+2hx^2+h^2x+x+hx^2+2h^2x+h^3+h+2-x^3-x-2\}}{h}\\ =\lim_{h \to 0}\frac{3hx^2+h^2x+h^3+h\}}{h}\\ =\lim_{h \to 0}(3x^2+hx+h^2+1)\\ =3x^2+1 \end{align}

今度は公式を使うと下となります。

\begin{align} f'(x)=\{x(x^2+1)+2\}’\\ =(x^3+x+2)’\\ =(x^3)’+x’+2’\\ =3x^2+1 \end{align}

以上より同じ計算結果となり、そして圧倒的に公式を使った方が楽です。なので実際の計算では公式を使えばよいですが、定義式の意味は重要なので、定義式の方も覚えておいてください。

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木田元『現代の哲学』書評と要約

評価:

日本の現象学研究の第一人者、木田元による現代(1960ごろ)哲学の入門書です。木田元の最初の著作らしくて、「あとがき」にもあるようにかなりの筆の勢いで疾走感が通底して感じられます。木田元の著作なので、やはり現象学分野が一番詳細ではあるんですが、フロイトやソシュール、レヴィ=ストロースやラカンにまで言及された広範囲の入門書になってます。現代哲学の入門書は人によって取り上げられる人たちがかなり変わってきて、フロイトやソシュール、ヴァロンといった、通常は哲学者に含まれることのない思想家が紹介されているところに木田の思想自体が現れてきていると言ってよいでしょう。

けっして読みやすい本というわけではないですが、20世紀に通底するヨーロッパ思想を一筋の流れとして表現した、貴重な本であることは間違いないです。木田によるとメルロ=ポンティなどの思想は、興隆する自然科学の基盤となろうとしたものらしく、木田自身にもその思想が基底に流れているように思われます。入門書として優れた本ですが、やはり私には理解が難しくて、私にとっての評価は3.5です。

下に章ごとの要約を載せますが、かなり強引なまとめ方をしています。また、木田の表現のまま要約することはとてもできなくて、私の表現に直すことで木田の文体の妙は飛んで行ってしまっています。そこはご勘弁ください。

章ごとの要約

Ⅰ 20世紀初頭の知的状況

20世紀のヨーロッパでは、知性・理性に対する危機的状況、<数学の危機>や<物理学の危機>、<人間諸科学の危機>と呼ばれる事態が生じます。この結果、普遍的な学問的認識というものは原理的に不可能ではないか、とみなされるようになります。このような事態に陥るということ自体が両価的で複雑な事態で、それをもたらした19世紀の科学的合理主義とヘーゲル流の絶対精神の二つの流れから批判していく必要がありました。

Ⅱ 人間存在の基礎構造

諸学問の<危機>に対し、ゲシュタルト心理学や現象学が批判的に議論を発展させていきました。ある種の先入見に規定された<客観的世界>を前提にして、自然科学も心理学も構築されていたので、我々の生活において世界がそのように現れることそのものを対象として思想を展開する必要が生じます。

ケーラーの類人猿に対する行動観察から、動物行動はその時々のパースペクティブに限定されたシグナルのレベルにとどまり、人間においてはじめて、目の前の直接的な状況から離れた、シンボルのレベルの<世界>が現れていることが、メルロ=ポンティによって考察されました。フッサールの現象学的還元で見いだされる<世界>、つまり幾層にも潜在的な地平を持つ包括された全体的地平のことですが、これもシンボルによって構造化されたシンボル体系としての<世界>と異なるものではありません。

*ハイデガー、サルトルについての記述もあるが省略

Ⅲ 身体の問題

心と身体に明確な区別を考えることはできず、<心的なもの>とか<精神>とよばれるものは身体からの高次の統一形式として現れるものです。そのことは幻影肢や昆虫の脚の代償行為などの心理学的、生理学的知見にもはっきりと現れています。生物にとって<身体をもつ>ということは、一定の環境にはいりこみ、ある企投と融け合って、その環境とかかわりをもちつづけることです。人間においても同様ですが、人間の場合は、個々の反応を末梢部に委ねることで、そういった反応に回収されない心的・実践的空間を獲得しています。階層的な統合化においては、それぞれの階層間において、前の段階が<身体>なのであり、次の段階が<心>なのだといえます。統合化が成功している場合には、われわれの身体は生物学的レベルを超えた高次の弁証法に属するような志向を表現するのですが、統合化がうまくいかないときは心と身体の適切な対応を保つことができなくなります。

*フロイトの性の概念についての考察があるが省略

Ⅳ 言語と社会

思考と言葉とは、決して外的関係によって結びつけられているようなものではありません。言語の習得は、幼児の身の周りの人間との関係や環境と密接に連関しています。言語の習得というのは、それらの構造の再編成といった現象と同じスタイルの現象であり、話し方を学ぶということは、一連の役割を演ずることを学ぶことです。言語の構造は多数の記号の間の差異によって形成されているのであり、言語は思考を直接表出するというよりも、話者と聞き手双方にとって、経験のある種の構造化を実現するものです。言語の場は身体による世界への内属を基盤としているのであり、他人の経験は何よりもまず知覚的なもので、それをもとにして他人の思考としての他者が感受されるようになります。そうしてみると言語は他者との関係を含むもので、言語の獲得は根源的なレベルで相互主観的でかつ社会的なものです。

レヴィ=ストロースは、言語が自然的音声を足場にして構成されたシンボル体系であるのと同様に、社会構造も生物的集団を足場にして構成されたシンボルの体系とみなしています。我々は身体を介して世界とつながっているので、自由を考えるときにもそういった社会構造を踏まえておく必要があります。我々のまわりには我々を様々に性格づける様々な意味の地帯があり、それが主体の疎外やその逆に世界の人間への再統合の基礎も与えてくれます。

Ⅴ 今日の知的状況

1960年ごろまで<マルクス主義か実存主義か>という枠組みがあったのですが、両立場の中でも分裂が起こってきます。実践的必要性から生じたレーニンの素朴反映論に対し、西欧側では実存主義的な弁証法が提示されます。さらに対抗してアルチュセールらの社会構造の理論としてのマルクス主義が提唱されるのですが、結局のところ実存主義的な考え方に回帰してくることになります。

マルクス主義とは異なる潮流として、レヴィ=ストロースやラカンによる構造主義的思想が登場します。<構造主義>はもともとソシュール言語学を元にしていて、合理的に組織された差異のシステムという考え方が<構造>概念の中に取り入れられています。レヴィ=ストロースはヤーコブソンの<構造>概念をもとに、親族の構造や神話の構造の分析を行っており、無意識的な目的をもった一つの全体的な構造や、具体的なものや感性的なものを論理的思考のなかに置き換えてゆく思考形式をそこに見いだしました。また、ラカンは以上のような構造的言語学を通して精神分析を考察しています。精神分析では、言語体系による抑圧が無意識を通して現れる、パロールの場を考えなければいけません。レヴィ=ストロースの用いる<構造>はあくまでモデルであり、それは物でも観念でもない両義的なもので、構造を用いた分析は「事実の展開のうちにおのずから実現される<秩序>ないし<意味>を見いだそうとする二重の意図をもった試み」であることを忘れてはなりません。

追記

繰りかえしになりますが、20世紀前半という時代に通底する思考を元に、幅広くかつ連接を保ちながら各思想を紹介した名著であると思います。現象学の紹介がもっとも詳細で有益であることは間違いないですが、現象学にとどまらずその周辺領域との関係を読み取るには、よい手助けになってくれる本ではないでしょうか。

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