評価:
メルロ=ポンティの講義録「幼児の対人関係」の書評と要約です。自分が読んだのは『眼と精神』に収められているもので、メルロ=ポンティコレクションの『幼児の対人関係』とは収められている他の論文が異なっています。他に『眼と精神』に収められているのは「人間の科学と現象学」、「哲学をたたえて」、「眼と精神」の三つです。どれも自分には荷が重く、正直言ってよくわかりませんでした。ただ「幼児の対人関係」は講義録とあって読みやすく(理解しやすいのとは少し違う)、上の評価4は「幼児の対人関係」に対する評価です。
「幼児の対人関係」では、当時の多数の心理学論文を参照しながらもそれらの論文に批判がくわえられています。それらの論文を綜合して体系化を行うことが試みられていると思うんですが、私の推測なので保証はないです。
主に幼児の言語の獲得において、それと相関する心的現象の影響が考察されています。現在の心理学における言語獲得理論の先取りというか、メルロの方がむしろ進んでいるというか、ともかく示唆するものが多い論文です。ただし講義録とあって重複が多いとか、話が直接にはつながってない部分が多くて全体としてのつながりがわかりづらいといったマイナス部分もあります。それらマイナス部分を考慮しても、発達心理学とか言語理論に携わる人には一読をお勧めします。
下に要約を示します。「幼児の対人関係」はその前後に行われた講義とシリーズを構成しているみたいで、この講義録は第一部で終わってます。なので下の要約も構成が中途半端になりますが、そこは本の構成によるものです。この講義の前の講義はネットで調べた限り「子どもの意識の構造と葛藤」、「子どもの心理-社会学」のようです。もし、他の講義録も読むことがあればまた書評を上げると思います。
要約
序論
幼児の認識や言語の獲得といったものは、「純粋な知性の行使にもとづくのではなく、もっと不明瞭な操作、つまり幼児が自分の生きている環境の言語体系を自分に同化していく作用にもとづくのであり、そしてその作用も、或る習慣の習得とか行為の或る構造の習得に比すべき操作である」と考えられます。
第一章 心理的硬さ
感覚的な諸性質や空間の知覚などの、一見非感情的に見える知覚でさえ、パーソナリティや幼児がそのなかに生きる人間関係によって深く変容されることが報告されています。フレンケル=ブランズウィック夫人は観察実験から「心理的硬さ」の概念を導入しており、これは「相互に符合しないような特徴はなかなか認めたがらず、ものを述べるのにも、つねに単純で断定的で結論的な見解に達しようとする人の態度」のように定義されています。彼らの態度には、両義性(いいところも悪いところもあるなど)を認めることができず、善悪などのどちらかに二分してものを考えることしかできない、「両極性」と呼ぶべき性質が見受けられます。心理的に硬い人に欠けているのは、いろいろな存在者にどうしても現れてくる諸矛盾を、真正面から見据える能力なのです。
そして心理的硬さとその人の知覚の性質には、単純な類比の関係にあるわけではないにしても、ある対応関係があります。「仮に彼らに、少しずつ変形していく映画みたいな像、たとえばだんだん猫に変形していく犬の像を呈示するとします。強い偏見をもった被験者のグループは、一般に最初の知覚様式を頑強に守り、客観的には変化がすでに感じられるはずになった時でさえ、呈示されている図形の中に大した変化を認めようとしません。」
これらの人たちには強い社会的偏見や人種的偏見が見受けられることが多かったのですが、心理的硬さが認められるのは特定の主張そのものではなく、そうした主張の採用の仕方、あるいはそれを正当化しようとするそのやり方においてです。
第二章 感情性と言語
ロスタン氏の論文によると、幼児の言語の習得と家族的環境の間には、深いつながりがあると推測されています。そのつながりにおいて情動が一役買っているわけですが、これはその情動が、人間的環境に対する関係の構造再編の機会を与えてくれるからです。言葉の進歩は非連続な性質をもっており、その幼児が新しい語法を習得するときには、一種の危機状態が訪れ、その危機の克服とともにある分野の表現法全体が一挙にできあがってしまいます。
[第一部] 幼児における他人知覚の問題
第一章 理論的問題
古典的心理学では、目の前の物体である身体に、自分と同じような心理作用が生じていると、なぜ人は思うようになるのか、といったことが問題として生じています。そして古典的心理学においてはこの問題を知性による操作によると考えていますが、そのような方法を用いるには幼児の知覚経験が不足するため、この考え方は不適切です。
たとえば模倣において、幼児が身体動作をまねることができるのは、自分の身体は「体位図式」や「身体図式」といったものを通して自分に与えられている、といったふうに考える必要があります。それら図式は「内受容的側面や外受容的側面が相互に表出し合っている一つの系」なのであり、ある働き方のスタイルを共有し、組織化された全体たらしめるようなある行為的意味を持っています。
そのため容易に他人に移されることも可能なのです。
第二章 身体図式の整備と他人知覚の萌芽-誕生から六ヵ月まで-
自分が身体をもっていることを意識することと、他人の身体が自分とは別の心理作用をもっていると意識することは、実際には一つの系をなす操作です。これら二つの側面は同時に優位になるようなことはなく、例えば自己の身体の知覚が次の発達段階に影響を与え、そこに生まれた不均衡により次に他人知覚が優位を占めるものとしてあらわれる、そういったものです。
第一節 誕生から六ヵ月までにおける<自己の身体>
ヴァロンによると、幼児の知覚はまず内受容的なもので、口によって含まれたり探られたりしうる空間が彼らにとっての世界です。神経系の発達により内受容的領域と外受容的領域の間に接合が生まれるのは、生後三ヵ月から六ヵ月までの間です。
第二節 誕生から六ヵ月までにおける<他人>
生後三ヶ月までは幼児に他人の外的知覚はなく、抱かれているときの心地よさの違いなどにより、結果として抱いている人の違いが周りの人に見えているだけです。他人の観察の最初のきざしは身体の部分への注目で、他人の身体の諸部分への注視は自分の身体についての知覚を著しく増大させます。そして六ヵ月めになると他の幼児の顔をじっと見るようになり、この段階で我々に幼児が他人知覚を行っているらしいという印象を与えます。
第三章 六ヵ月以後-自己の身体の意識と鏡像
第一節 自他の癒合系(六ヵ月以後)
a 鏡像
鏡に写った自己の身体の認識は、動物と幼児では大きく異なります。たとえばアヒルなら鏡に写った像は自分の像ではなくもう一匹のアヒルとして受け取られます。チンパンジーの場合は特殊で、それが像であることに納得しながらも以後、像の意識を拒否するようになります。これに対し六ヵ月以後の幼児では、鏡の像を実物と異なるものとして受け取っていると思われる事例が観察されますが、鏡の像を単なる像と見極めているわけではなく、像においても一種の欄外的存在として保たれています。実際のところ、幼児の自己の鏡像の理解は、「本当の身体の一種の分身と見ていた」、といったものです。
次に像というものを固有の空間性をもたない単なる見かけに還元する段階があって、一歳というかなり早いうちに現れるようです。しかしその段階に入ったからといって、身体の像と身体そのものとの対応の体系が完成しているというわけではありません。幼児は鏡の像に実在性を見出さなくなったとしても、同様の事態、たとえば影に対しては以前の態度のままです。知的理解は「一切か無か」の法則に従うため、鏡像意識の発達の中に見られるような一連の漸次的推移を、知的批判による還元で説明するのは不適切です。
幼児は初め、内受容性によって与えられるものと外的知覚によって与えられるものの区別がついていません。幼児においては<外から見える私の身体>と<私の内受容的身体>と<他人>との一つの系が成立しているのであり、上記の区別がついていないことがその理由です。そこから「転嫁」の現象(自己と他人との間の仕切りの欠如)が生じるわけであり、癒合的社会性の基礎ともなっています。
幼児は鏡の中の像を通して、自分の姿が自分にも他人にも見えるものだということを学びます。このとき内受容的自我から可視的自我への移行がおこり、パーソナリティの或る形態・或る状態から別の形態に移ることになります。鏡像が出現する以前のパーソナリティは、精神分析における「自我(エゴ)」と呼ばれているもの、つまり「漠然と感じられる衝動の全体」です。それが鏡の像を得たことにより、自己自身の理想像、「超自我」の可能性が出現してきます。
われわれが普通に知性と呼んでいるものは独特なタイプの対人関係(つまり「相互性」という関係)を指す別な呼び方にすぎないのであり、われわれの発達過程において<他人との生きた関係>が、抽象的に「知性」と呼ばれているものの支柱となっています。われわれの仮説においては、経験の介入する余地を残しながらおのれを全体的に維持していく、といった知覚の平衡状態を習得すること、それが重要となります。
b 癒合的社会性
幼児においては、自己と他者、自己と環境とが未分化なのであり、そのために現れる癒合的社会性が見られれます。ねたみ、模倣、転嫁などの現象もこれが要因です。幼児が外的知覚を還元してただ一つの視点から見えているものと考えるのは、もっと後の段階になってからです。言葉を使い始めた段階では、象徴とそれが指し示すものの区別もついておらず、言葉と物とが絶対的に区別されているわけでもありません。幼児の単語文も同様に、癒合性の作用によって理解することが可能になります。たとえば幼児が「手」の言葉で、自分の手や父の手、写真に写った手を指すわけですが、これは象徴的作用によるものではなく、ただこれらの間の区別がない、というだけのことです。
第二節 三歳の危機
*ここまでのまとめにあたり、ここでは省略。
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「幼児の対人関係」が収録された本は二冊あって、楽天広告では『眼と精神』の方しかなかったので、そっちの広告を上げておきます。どちらも翻訳は木田元だったので、「幼児の対人関係」の内容は変わらないと思います。
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