國分功一郎/山崎亮『僕らの社会主義』書評と要約

評価:

あまり評価していない本の書評も挙げることにしました。自分が評価してなくても、書評を上げておけば、それはそれで他の人の役に立ちそうに思えます。

今回書評を上げるのは、國分功一郎と山崎亮の対談集『僕らの社会主義』です。國分功一郎は哲学者で、何冊か本を読んだことがあるので知っているのですが、もう一人の山崎亮はまったく知らない人で、建築関係の人みたいです。この本は2017年の本なので二人とも40代前半のころですね。対談集は数十冊くらい読んだと思いますが、今思い浮かぶ限りこの本が一番まとまりがないです。重要と思えることがないとかじゃないんですが、重要な情報が散らばってて、その情報を拾い集めて思考のまとまりと成すのは、かなり骨が折れそうです。今回は要約という形でまとめられそうにないので、章ごとに気になったところとか、感想を挙げて終わりにしたいと思います。

各部ごとのまとめと感想

はじめに ポストモダンの素敵な社会主義 國分功一郎

まず「はじめに」は國分功一郎で4ページしかなくて密度が薄く感じます。私はたいてい「はじめに」のところを立ち読みしてから購入を決定するんですが、國分功一郎の『ドゥルーズの哲学原理』を読んだ後だったので、吟味せずに購入してしまった記憶があります。「ポストモダンの社会主義」なので、近代の後の時代に必要な仕組みとして社会主義をもう一度検討しよう、ということでしょう。そんな風にはっきり書いてあるわけではなくて私の感想ですが。「いまの社会はイギリスの初期社会主義を生み出したあの19世紀に似てきているのではなかろうか?」って書いてあるので、間違いではないでしょう。また「イギリスの初期社会主義」が議論の対象となることが「はじめに」からわかります。

第1部 いまこそ大きなスケールで – 政治哲学編

第1部は「大きなスケールで」とあるように、今ある体制だけでなくあり得た体制まで視野を広げて考察しようとしています。そしてその考察のために、今ではほとんど参照されることのない19世紀の社会主義者が紹介されています。写真付きで紹介されている人の名前だけ挙げておきます。ロバート・オウエン、トマス・カーライル、ウィリアム・モリス、ジョン・ラスキン、エベネザー・ハワード、ヘンリエッタ・バーネットの六人です。具体的な内容は次章ですが、基本的に彼らは、大衆がもっと豊かな生活を送れるように、という動機で社会制度の構築を考えていたみたいです。「楽しく働いた結果としての美しい製品に囲まれた生活」を広めたい、と思ってたのだけど、美しくて値段の高い商品になって金持ちしか来なかった、というオチが待ってたようです。そこから社会体制自体を変えないと、と思っていろいろ考えたみたいです。

第2部 あったかもしれない社会主義 – 故郷イギリス編

第2部で具体例です。田園都市を設計して、実際に町を作って、協同組合とかも作ったらしいです。理由はわかりませんが、かなり失敗したけど、協同組合とか協同売店とか、一部上手くいって引き継がれていったものもあるようです。次に服装や建物の装飾について書かれています。一般の人も、豊かな装飾で着飾るべきという感じですが、貧しい人はどうやって?ということはあまり書かれてないです。ただし労働者協会とか労働者大学とか実際に作ったものもあるみたいで、教育を重視していたみたいです。

第3部 ディーセンシーとフェアネス – 理念提言編

第3部は理念提言編となってるんだけれども、ここがこの本で一番弱いんじゃないでしょうか。それがこの本がまとまりなく見える理由でしょう。抽象化された理念って大切ですよね。単純に労働の賃金が安いからではなく、つまらない仕事をしないといけないのが問題だ、みたいな話で、今となっては賃金が安すぎる、または職が無くて食っていけない方が問題になっているんですが、仕事のやりがいとかも重要というのは確かでしょう。

第4部 行政×地域×住民参加 – 民主主義・意思決定編

第4部は住民が参加しての行政の話です。住民参加というと昔は反対運動だったのだけど、住民が行政に作ってほしいものを提起するという形が出てきて、今度は住民がこういうの作るから許可をくださいと行政に言う状態になってきているんじゃないか、とのことです。これはこれでよいですね。ツルペタに補修されて魚がいなくなった川とか、この仕組みでもうちょっと魚が住めるように変えられるかもしれません。川とか山とかなんかツルペタにされること多いですよね。地球にアイロンをかけたい?(「フリクリ」)自分の脳ミソのシワまで伸ばさなくてよいんですよ。

追記

以上、ざっと本の内容をまとめてみました。参考になることはたくさんあるのだけど、なんかやっぱり本の完成度が低いので、評価は低くしときます。それとこの本、社会主義の新しい定義が書いてないんですね。全体主義のイメージがつきまとうのなら、やっぱり社会主義の意味を定義し直した方がいい気がします。「素敵な社会主義」とかのキャッチフレーズではなく。資本主義の方は「無限の更新運動」「無限の蒐集システム」「欲望を金に換えるシステム」「貨幣の自己増殖」等、いろんな定義の仕方があるわけで、でもどの考え方も根っこのところでつながっていると思います。自分の考えている社会主義がどういうものか説明しておくだけで、読後の印象はだいぶ違ってくるのではないでしょうか。やっぱり言葉の力ってすごいですね。

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福山哲郎×斎藤環『フェイクの時代に隠されていること』書評と要約

評価:

2018年に出版された、立憲民主党の福山哲郎と臨床精神科医の斎藤環の対談集です。斎藤環は対談集をたくさんだしているのですが、政治家との対談集は初めてじゃないでしょうか。斎藤によると政治家何人かと話をしたことはあるけど、なかなか対話にならなくて気味の悪さを感じていたらしいです。今回の対談の前に何度か二人で会って話をしてたらしく、初めてまともに対話が成立する政治家だったとのことです。

そんな経緯もあってこの対談集が出されたわけですが、対談集なので話のまとまりはよくないです。それから重要な指針を与えてくれそうな発言はほとんど斎藤によるものです。福山も現場でしかわからない話を具体的にしてくれてはいるのですが。まとまりの悪さとか斎藤の発言の方が圧倒的に示唆に富むとかはありますが、まともな発言をできる日本の政治家がいることを知れるだけでも、読む価値があると思います。そんな理由からちょっと高めの評価3.5にしました。

全四章構成で、下に章ごとの要約を上げておきます。冒頭に記した通り2018年の本なので、現在の状況とは異なる点も多々あることを先にことわっておきます。

各章ごとのまとめ

はじめに(斎藤環)

与党、野党を問わず政治家が馬鹿に見えます。これは「どぶ板選挙」的なものが原因で、多くの政治家が当初抱いていた志は、選挙の洗礼を重ねるごとに矮小化されて、国家の利益から党の利益、そして最後は後援会の利益とかが彼らの目的となってしまいます。

フェイク現象の背後にあるのは深刻な政治不信で、例えば若い世代の自民党支持率の高さも、変化への不信がもとにあるためと考えられます。開発独裁は若い世代の承認への欲求を利用しており、社会的排除やマイノリティの問題はどうするかというと、もっとも弱い立場のマイノリティ(たとえば障害者)のみは手厚く支援し、その他の弱者には「気合いと絆で自助努力せよ」と伝えて放置することになります。

現在は「正しさ」が人を動員しなくなった時代であり、問題解決には「人々を分断する議論や説得ではなく、互いに経験を交換する対話を試みること」が必要になるはずです。

第一章 ヤンキー(=空気)が日本を支えている

安倍政権は簡単に言うと「ヤンキー政権」で、ヤンキーの精神性に支えられています。ヤンキーの精神性にはその包摂性により現場の人間の自助努力である程度なんとかなってくれるという長所はあるのですが、ヤンキー的政権にはそれに依存してしまうという問題があります。

ヤンキー政権でどうにもならないことに原発の問題があります。原発を稼働させるための国際基準があって、五層までの要件を満たさないと原発は稼働できません。かつては三層までしかなく、原発事故の後、四層目は作れたのですが、最後住民避難に関する第五層はいまだ策定されていません。

第二章 退屈なファクトより面白いフェイクが世界を覆う

現代には、社会の仕組みとしてフェイクに対する耐性をどう得るか、という難題があります。ファクトとかエビデンス重視が日本のリベラルの問題点とつながっている部分があり、少なくとも政治家は正しさを人々がどう受け止めるかということに対して配慮する必要があります。

オープンダイアローグの現実の場において、相手の話をちゃんと聞くという態度で妄想を語ってもらったら、自然と妄想が消えてしまったということがあります。幻聴とか妄想というのはある種のつらい現実に対する対処法で、安心できると要らなくなってくるみたいなところがあります。政治の場においても、相手に語ってもらうということが有効になるかもしれません。

第三章 フェイクの時代の裏で起こっていたこと

セクハラとかDVとかの問題は、広義の「暴力」の問題に含まれます。宮地尚子さんによる暴力の定義は「親密的領域において相手の個的領域を奪うこと」です。

依存症においてはハーム・リダクション(より毒性の弱いもので代わりにし、悪影響を減少させること)じゃないと立ち行かないことが明らかになってきています。欧米圏では「暴力」はゼロ・トレランス(非寛容)でドラッグに関してはハーム・リダクションが受け入れられつつあって、日本はその真逆です。また入院が必要な精神病患者は減ってきているのですが、構造的な問題で入院数が減りません。「相模原障害者施設殺傷事件」は「排除された弱者が、排除の思想を持って」犯した犯罪であり、被告が普通は措置入院にならない状況で入院させられたことが引き金になった可能性があります。弱者が弱者を排除するような構造ができあがってしまっているので、この構造そのものを変える必要があります。

ひきこもり問題では、これからの年金支給の財源等の問題から、ケアの視点を含んだ就労支援が必要と考えられます。引きこもりは「本人の頭のなかに病気があるんじゃなくて、「家族関係のなかの病」」です。病気としては軽いのだけど、関係のなかの病なので、関係が変わらない限り、普通の病気と違って治ることは期待できません。また引きこもりにかぎらず、就労支援においては「ワン・ストップ」で相談できる場所が必要です。

第四章 なぜ貧困と差別が固定化してしまうのか

日本は三割が非常に苦しい思いをすることで残りの人びとにとっての利益や幸福度を最大化する仕組みになっていると考えられます。排除された三割の不幸をどうするかということが政治家の仕事です。現在の日本は中間層がやせ細り続けている状態で、再分配政策を実施するには、中間層にも恩恵があるようなやり方でないと支持が得られません。福山は、「弱者救済」とか「格差社会」という言葉では理解されないので、「みんなで負担して、みんなで幸せになろう」という言葉を出しています。

もともと日本社会は、親密圏における暴力に対しては異様に寛容な社会です。このなかに体罰とか、しごきとか、夫婦間のDVとか虐待とか、すべて含まれます。男尊女卑とかニンビズムとか呼ばれる「大事なものだけど家の近所には造ってくれるな」という発想とかが、日本では今も根強く残っています。このような問題に対して、エビデンスに基づいた正しさを追求すればよいというわけではありません。相容れないと思っている相手ほど、その相手の世界を理解する必要があって、「どういう気持ちでその価値観を支持しているのかということ」を理解するための態度が必要になります。

追記

章ごとに要約するとそんなに情報量は多くなくみえますが、かなり省略して要約しているので実際には情報量は多いです。日本を取り巻く問題はすべて出そろっているだろうし、それらの問題すべてに共通する性質が垣間見える本にはなっていると思います。本当は最後に立憲民主党の結成の顛末が書かれているのですが、あまり興味がなかったので省略してます。

この本に書かれているおおむねの内容に私は同意してます。立憲民主党には不満もあるので、福山さんには政治の場でこの本に書かれていたことを実践してほしいところです。現在、要職からは退いてますが、福山さんには今でも期待しています。

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関数の概形

微分を用いて関数の概形を描くことができます。微分係数の値の増減から、関数の山と谷にあたる部分を見つけることで行います。

具体例で説明したいと思います。今、概形を知りたい関数をy=f(x)=2x3-3x2-12x+5の三次関数とします。まず増減表と呼ばれる表を作ります。増減表は上からx、f'(x)、f(x)の順に、f'(x)の値をもとにして作ります。先に増減表を下に示しておきます。

x-12
f ‘ (x)+00+
f(x)12-15

この表を作るには、まずf(x)の導関数f'(x)を求め、f'(x)=0となるxの値を探します。

\begin{align} f'(x)=6x^2-6x-12\\ よってf'(x)=0のとき、f'(x)=6x^2-6x-12=6(x+1)(x-2)=0よりx=-1,2\\ \end{align}

f'(x)=6x2-6x-12は下に突の二次関数なので、図1のようなかたちになり、x<-1のとき正、x=-1のとき0、-1<x<2のとき負、x=2のとき0、2<xのとき正になります。この結果が増減表のf'(x)の行に書かれていることです。ここでf'(x)がこのように変化していくことが、もとの関数f(x)においてどのような意味を持つか考えてみます。

f'(x)はf(x)の接線の傾きにあたるので、xの増加に伴ってf'(x)が正から0になって負に変わるとき(図1のx=-1周辺に対応)、図2(a)のような状態に対応しています。


このようにf'(x)が正→0→負と変わるとき、f(x)はそのあたりで山になっています。一般に、関数における山の頂点を極大と呼び、そのときの関数の値を極大値と呼びます。今度は逆にf'(x)が負→0→正に変わるとき(図1のx=2周辺に対応)、図2(b)のようになり、f(x)は谷の形状になります。このときの谷の底を極小と呼び、そのときの関数の値を極小値と呼びます。以上のことが示しているのは、f'(x)=0となるxの前後のf'(x)の符号を調べることで、もとの関数が山になっているか谷になっているかがわかるということです。増減表の一番下、f(x)の行に書いてあるのはこのことです。したがって増減表の一番下が、ある意味で関数のグラフの形状を示してくれていると言えます。そして増減表をもとにしてグラフの概形を描くと、図3のようになります。

実際には二回微分や極限を取ったりしてもっと詳細な情報を得ないとこの形はわからないのですが、それらは数Ⅲの内容になるのでここでは省略します。

それからf'(x)の値が0になったとしても、その前後のf'(x)の値の符号が変わらない場合は極値とはならないので注意してください。たとえばy=x3のグラフは図4のようになって、x=0でf'(x)=0ですが、x=0の前後でf'(x)はどちらも正なので、x=0で極値にはなっていません。

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幼児の対人関係(『眼と精神』所収)書評と要約

評価:

メルロ=ポンティの講義録「幼児の対人関係」の書評と要約です。自分が読んだのは『眼と精神』に収められているもので、メルロ=ポンティコレクションの『幼児の対人関係』とは収められている他の論文が異なっています。他に『眼と精神』に収められているのは「人間の科学と現象学」、「哲学をたたえて」、「眼と精神」の三つです。どれも自分には荷が重く、正直言ってよくわかりませんでした。ただ「幼児の対人関係」は講義録とあって読みやすく(理解しやすいのとは少し違う)、上の評価4は「幼児の対人関係」に対する評価です。

「幼児の対人関係」では、当時の多数の心理学論文を参照しながらもそれらの論文に批判がくわえられています。それらの論文を綜合して体系化を行うことが試みられていると思うんですが、私の推測なので保証はないです。

主に幼児の言語の獲得において、それと相関する心的現象の影響が考察されています。現在の心理学における言語獲得理論の先取りというか、メルロの方がむしろ進んでいるというか、ともかく示唆するものが多い論文です。ただし講義録とあって重複が多いとか、話が直接にはつながってない部分が多くて全体としてのつながりがわかりづらいといったマイナス部分もあります。それらマイナス部分を考慮しても、発達心理学とか言語理論に携わる人には一読をお勧めします。

下に要約を示します。「幼児の対人関係」はその前後に行われた講義とシリーズを構成しているみたいで、この講義録は第一部で終わってます。なので下の要約も構成が中途半端になりますが、そこは本の構成によるものです。この講義の前の講義はネットで調べた限り「子どもの意識の構造と葛藤」、「子どもの心理-社会学」のようです。もし、他の講義録も読むことがあればまた書評を上げると思います。

要約

序論

幼児の認識や言語の獲得といったものは、「純粋な知性の行使にもとづくのではなく、もっと不明瞭な操作、つまり幼児が自分の生きている環境の言語体系を自分に同化していく作用にもとづくのであり、そしてその作用も、或る習慣の習得とか行為の或る構造の習得に比すべき操作である」と考えられます。

第一章 心理的硬さ

感覚的な諸性質や空間の知覚などの、一見非感情的に見える知覚でさえ、パーソナリティや幼児がそのなかに生きる人間関係によって深く変容されることが報告されています。フレンケル=ブランズウィック夫人は観察実験から「心理的硬さ」の概念を導入しており、これは「相互に符合しないような特徴はなかなか認めたがらず、ものを述べるのにも、つねに単純で断定的で結論的な見解に達しようとする人の態度」のように定義されています。彼らの態度には、両義性(いいところも悪いところもあるなど)を認めることができず、善悪などのどちらかに二分してものを考えることしかできない、「両極性」と呼ぶべき性質が見受けられます。心理的に硬い人に欠けているのは、いろいろな存在者にどうしても現れてくる諸矛盾を、真正面から見据える能力なのです。

そして心理的硬さとその人の知覚の性質には、単純な類比の関係にあるわけではないにしても、ある対応関係があります。「仮に彼らに、少しずつ変形していく映画みたいな像、たとえばだんだん猫に変形していく犬の像を呈示するとします。強い偏見をもった被験者のグループは、一般に最初の知覚様式を頑強に守り、客観的には変化がすでに感じられるはずになった時でさえ、呈示されている図形の中に大した変化を認めようとしません。」

これらの人たちには強い社会的偏見や人種的偏見が見受けられることが多かったのですが、心理的硬さが認められるのは特定の主張そのものではなく、そうした主張の採用の仕方、あるいはそれを正当化しようとするそのやり方においてです。

第二章 感情性と言語

ロスタン氏の論文によると、幼児の言語の習得と家族的環境の間には、深いつながりがあると推測されています。そのつながりにおいて情動が一役買っているわけですが、これはその情動が、人間的環境に対する関係の構造再編の機会を与えてくれるからです。言葉の進歩は非連続な性質をもっており、その幼児が新しい語法を習得するときには、一種の危機状態が訪れ、その危機の克服とともにある分野の表現法全体が一挙にできあがってしまいます。

[第一部] 幼児における他人知覚の問題

第一章 理論的問題

古典的心理学では、目の前の物体である身体に、自分と同じような心理作用が生じていると、なぜ人は思うようになるのか、といったことが問題として生じています。そして古典的心理学においてはこの問題を知性による操作によると考えていますが、そのような方法を用いるには幼児の知覚経験が不足するため、この考え方は不適切です。

たとえば模倣において、幼児が身体動作をまねることができるのは、自分の身体は「体位図式」や「身体図式」といったものを通して自分に与えられている、といったふうに考える必要があります。それら図式は「内受容的側面や外受容的側面が相互に表出し合っている一つの系」なのであり、ある働き方のスタイルを共有し、組織化された全体たらしめるようなある行為的意味を持っています。
そのため容易に他人に移されることも可能なのです。

第二章 身体図式の整備と他人知覚の萌芽-誕生から六ヵ月まで-

自分が身体をもっていることを意識することと、他人の身体が自分とは別の心理作用をもっていると意識することは、実際には一つの系をなす操作です。これら二つの側面は同時に優位になるようなことはなく、例えば自己の身体の知覚が次の発達段階に影響を与え、そこに生まれた不均衡により次に他人知覚が優位を占めるものとしてあらわれる、そういったものです。

第一節 誕生から六ヵ月までにおける<自己の身体>

ヴァロンによると、幼児の知覚はまず内受容的なもので、口によって含まれたり探られたりしうる空間が彼らにとっての世界です。神経系の発達により内受容的領域と外受容的領域の間に接合が生まれるのは、生後三ヵ月から六ヵ月までの間です。

第二節 誕生から六ヵ月までにおける<他人>

生後三ヶ月までは幼児に他人の外的知覚はなく、抱かれているときの心地よさの違いなどにより、結果として抱いている人の違いが周りの人に見えているだけです。他人の観察の最初のきざしは身体の部分への注目で、他人の身体の諸部分への注視は自分の身体についての知覚を著しく増大させます。そして六ヵ月めになると他の幼児の顔をじっと見るようになり、この段階で我々に幼児が他人知覚を行っているらしいという印象を与えます。

第三章 六ヵ月以後-自己の身体の意識と鏡像

第一節 自他の癒合系(六ヵ月以後)

a 鏡像

鏡に写った自己の身体の認識は、動物と幼児では大きく異なります。たとえばアヒルなら鏡に写った像は自分の像ではなくもう一匹のアヒルとして受け取られます。チンパンジーの場合は特殊で、それが像であることに納得しながらも以後、像の意識を拒否するようになります。これに対し六ヵ月以後の幼児では、鏡の像を実物と異なるものとして受け取っていると思われる事例が観察されますが、鏡の像を単なる像と見極めているわけではなく、像においても一種の欄外的存在として保たれています。実際のところ、幼児の自己の鏡像の理解は、「本当の身体の一種の分身と見ていた」、といったものです。

次に像というものを固有の空間性をもたない単なる見かけに還元する段階があって、一歳というかなり早いうちに現れるようです。しかしその段階に入ったからといって、身体の像と身体そのものとの対応の体系が完成しているというわけではありません。幼児は鏡の像に実在性を見出さなくなったとしても、同様の事態、たとえば影に対しては以前の態度のままです。知的理解は「一切か無か」の法則に従うため、鏡像意識の発達の中に見られるような一連の漸次的推移を、知的批判による還元で説明するのは不適切です。

幼児は初め、内受容性によって与えられるものと外的知覚によって与えられるものの区別がついていません。幼児においては<外から見える私の身体>と<私の内受容的身体>と<他人>との一つの系が成立しているのであり、上記の区別がついていないことがその理由です。そこから「転嫁」の現象(自己と他人との間の仕切りの欠如)が生じるわけであり、癒合的社会性の基礎ともなっています。

幼児は鏡の中の像を通して、自分の姿が自分にも他人にも見えるものだということを学びます。このとき内受容的自我から可視的自我への移行がおこり、パーソナリティの或る形態・或る状態から別の形態に移ることになります。鏡像が出現する以前のパーソナリティは、精神分析における「自我(エゴ)」と呼ばれているもの、つまり「漠然と感じられる衝動の全体」です。それが鏡の像を得たことにより、自己自身の理想像、「超自我」の可能性が出現してきます。

われわれが普通に知性と呼んでいるものは独特なタイプの対人関係(つまり「相互性」という関係)を指す別な呼び方にすぎないのであり、われわれの発達過程において<他人との生きた関係>が、抽象的に「知性」と呼ばれているものの支柱となっています。われわれの仮説においては、経験の介入する余地を残しながらおのれを全体的に維持していく、といった知覚の平衡状態を習得すること、それが重要となります。

b 癒合的社会性

幼児においては、自己と他者、自己と環境とが未分化なのであり、そのために現れる癒合的社会性が見られれます。ねたみ、模倣、転嫁などの現象もこれが要因です。幼児が外的知覚を還元してただ一つの視点から見えているものと考えるのは、もっと後の段階になってからです。言葉を使い始めた段階では、象徴とそれが指し示すものの区別もついておらず、言葉と物とが絶対的に区別されているわけでもありません。幼児の単語文も同様に、癒合性の作用によって理解することが可能になります。たとえば幼児が「手」の言葉で、自分の手や父の手、写真に写った手を指すわけですが、これは象徴的作用によるものではなく、ただこれらの間の区別がない、というだけのことです。

第二節 三歳の危機

*ここまでのまとめにあたり、ここでは省略。

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斎藤環、与那覇潤『心を病んだらいけないの?』書評と要約

評価:

臨床精神科医の斎藤環と歴史学者の與那覇潤による対談集『心を病んだらいけないの?うつ病社会の処方箋』の書評です。與那覇はうつ病になってからは歴史学者としての仕事はしていないみたいなので、著述家と言った方がよいかもしれません。

この対談集における内容の密度の濃さは素晴らしいものがあります。私は対談集好きで対談集はよく読んでいるんですが、今まで読んだ対談集の中で間違いなく最も示唆に富む本です。ただし対談集という形式のため、どうしても全体の統一性は犠牲にされている感じはします。そんなこともあって全体を要約するのは難しいので、各章ごとにまとめてみることにします。

要約

第一章 友達っていないといけないの?

第一章はヤンキー論です。なぜいきなりヤンキー論かというと、ヤンキーのエートスには今の時代を生き抜くための技法という側面があるからです。ヤンキーのエートスを、「右肩下がりの時代が来るのをわかっているのに過去を引きずっていたらとても耐えられないので、なんとかうつ状態に陥らずにこれからの時代を生き抜くための予防的な対応」とみなすこともできます。

與那覇はヤンキー的な寛容さに承認の可能性を見ようとしていますが、斎藤はやや否定的です。ヤンキー的な寛容は「他者の他者性」を排除して可能になるもので、「独立した個人として尊重する」ということが抜け落ちてしまっています。ヤンキーのエートスを理解する手助けになってくれるのが、山本七平による「日本教」(人間教)の概念です。これは一般的な日本人においては、完全なる神ではなく、(均質化されたイメージでの)人間を信仰の対象としてきたということを指す言葉です。人間教の帰結として、日本においては、キリスト教圏などに比べて「条件なしの承認を与える場」の乏しさにつながっています。

第二章 家族ってそんなに大事なの?

人間教による同調圧力を、家族という領域で体現する「標準家族」の幻想についてです。標準家族なる模範を作って全員がそうであれと強制する態度が、政治的立場のいかんによらず見受けられて、この態度こそが「右傾化」とみなすことができます。なぜか前近代的な家父長幻想が、時代にそぐわなくなるにかかわらず強化されていて、こういった同調圧力が再生産されることが、少子化や家庭崩壊につながっているのではないかと考えられます。

第三章 お金で買えないものってあるの?

第三章は承認がビジネスになってきていることに関連した話です。承認ビジネスは本当に承認を売買しているのか、というとはっきりしたことを言うのが難しいです。人間関係は、お金が介在すると途端に価値が下落してしまうものの代表だからです。また承認強者の方も「期待されたキャラ」を演じ続けなければならず、ある意味で典型的な「共依存」に陥る危険があり、単純に弱者からの承認の搾取のように考えることはできません。

第四章 夢をあきらめたら負け組なの?

第四章は、日本では「あきらめさせない装置」が機能し過ぎではないかという話です。あきらめさせない装置の代表格は日本の教育そのものです。口では「無限の可能性」を言いながら、一方で「協調第一主義」によって支配する、ある種のダブルスタンダードの問題として捉えることができます。万能感の副作用として、意欲や行動によって支えられていない場合には、人の行動を阻害して無気力化する作用のほうが強いことが挙げられます。

精神医学でいう「去勢」は「人間の心の成長を理解するためのひとつのモデル」で、「幼児が抱いている万能感」を捨てて、前に進むための言葉です。結局のところ「あきらめさせない」装置に対抗するものとして挙げることができるのは、身体の有限性による切断です。ただしカルトや高校野球のしごきなどに利用される、「身体を媒介として精神を無限性に開いていく」という奇妙な回路に堕してしまう危険性があります。

第五章 話でスベるのはイタいことなの?

「発達障害」は障害か否かのはっきりした線引きはできなくて、程度でしか診断できない「ディメンジョン診断」に含まれます。「発達デコボコ」という言い方もされて、これは「人はすべて、多かれ少なかれ発達の問題を抱えているが、日常生活に問題が生じるレベルの場合は発達障害と診断しよう」という発想のことです。

発達障害は「あきらめる装置」として使われ出していますが、実際には発達障害は「能力がこれ以上伸びない」という意味ではなくて、重要なのは発達障害「である」ことを踏まえて今後どう成長していくかを考えることです。

第六章 人間はAIに追い抜かれるの?

AIが人間に追いつくとか現状は夢物語で、実際はむしろ人間がAI化していると言えます。「構造主義」や「ポスト構造主義」は、無意識や社会関係に潜在している関係性の構造のほうが、行動のありようを決定づけていると考える立場のことで、彼らは「人間主義による抑圧」を否定したのですが、それに代わる環境調整で行動を誘導するような方法は人間のAI化を招くだけでした。結局、目ざすべきは反人間主義ではなく、価値規範抜きの人間主義という結論が出てきます。

第七章 不快にさせたらセクハラなの?

セクハラ問題は同じことが繰り返されています。その一方でセクハラチェックの精細度は格段に上がっていて、逆に新たなバックラッシュを招きつつある状態です。失敗の原因の一つは行動主義的なマニュアルで、それとは異なる意味への配慮を伴う指針が必要になります。「意味」が含まれるようにハラスメントを定義すると、「相互に意味の食い違いがあるとわかったときに、相手側が抱いてきた意味を一方的に棄却して、自分の側の意味にのみ従うよう強要する行為」と考えることができます。

第八章 辞めたら人生終わりなの?

事実の確認として、うつ病は薬物治療だけでは改善はするけど治しきれず、SSRIによる改善率は80%で寛解率(患者のうつ症状がすべて消える割合)は40%です。うつ病自殺の問題を解決するためには、単純に残業時間とかだけで判断するのではなく、「努力の甲斐があった」と思える環境を準備できたかどうか、そういったことも加味して判断しないといけません。うつ病への対処としては、社会関係資本を得ることが重要で、結局のところ、ダイバーシティこそがセーフティネットと言えます。ただしこのダイバーシティは、ホームレスやアルコール依存症のような「負のスティグマ」を抱えた少数派の人たちも包摂されるものでなくてはなりません。

終章 結局、他人は他人なの?

個人だけを見て治そうとしてても問題は解決せず、むしろ個人が訴えるつらさや症状を、時代背景や周囲の環境と一体をなす連続した存在として捉えて、そうした「つながり」に働きかけることが大事なのではないか、と考えられます。そこで「対話を通じた回復」が目指されているのですが、重要になってくるのはポリフォニー(多声性)です。自分と相手との間には決定的な違いがあり、しかしどんな相手にも個別の尊厳が備わっていること、これらを身体的に理解することが目指されています。ヨーロッパの実存主義的な個人主義とは異なる、他者が内部に織り込まれて個人としてあることを前提にした個人主義をどう守っていくか、これが本書で確認された課題になります。

追記

こうやって章ごとにまとめてみると、内容が多岐にわたっていて、やっぱり全体をまとめるのは難しいです。ただ、どの問題においても「人間教」の言葉で示される独特の全体主義的強制が原因としてあって、問題解決のために「自分とは決定的に違う、しかし誰しも個別の尊厳が備わっていることを前提にした個人主義」が目指されていることは通底しています。

この本は5年ほど前に出てて、この本で提示された問題が今まさに社会問題として現実化してきています。残念ながらこの本で解決策までは提示できてないですが、間違いなく問題の本質を見定める手助けとなってくれる良書です。

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