中沢新一『熊から王へ カイエ・ソバージュⅡ』書評と要約

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1.評価

評価:

カイエ・ソバージュシリーズの二冊目です。一冊目に比べて前半の密度がうすく感じて評価は若干辛めの3にしました。一冊通して通底する考え方はあると思いますが、それを見つけ出すのがけっこう大変な感じです。講義録なのでそこらへんは仕方ないでしょう。読みやすさと引き換えの感じはします。

具体的に神話の語り口を載せてくれているし、そこから「対称性の思考」をどう取り出すかを例示してくれています。辛めの評価を与えておいてなんですが、神話の奥底に眠る思想を探り、語りによって形を与える具体的な手つきを垣間見せてくれる、読むに値する一冊ではあると思います。

2.章ごとの要約

下に章ごとの要約を載せておきます。ただ、元の文体のまままとめることができなくて、自分の表現に直しながらの要約になっているのでご注意ください。

カイエ・ソバージュⅠの書評と同様、図表は全て省略しました。また今回は神話を要約に含めることができませんでした。本の性質から、図表と神話の語り口は重要なものなので、それらは著書を手に取って、どのようなものか確認してみてください。

序章 ニューヨークからベーリング海峡へ

神話を持つ社会では、人間は「文化」を持ち、動物は「自然」状態を生きていると考えられていました。その世界では自然に対する野蛮さなどなかったのですが、現在は動植物に対する「野蛮」そのものが社会に組み込まれています。2001年のニューヨークで起こったテロはもちろん野蛮な行為ですが、それを引き付けたのは非対称を押し付ける、現代社会による野蛮なのです。

第一章 失われた対称性を求めて

トンプソン・インディアンの山羊の狩りには様々な掟があって、掟の起源としてある「神話」が語られています。若い狩人が女に誘われついていくと、そこは山羊の住む洞窟であり、女に渡された毛皮を被ると雄山羊へと変わってたくさんの雌山羊と番います。彼が家に帰るとき、その女は次のように言います。

あなたはもう立派な狩人です。あなたは山羊たちが人であるこを知っているので、死体を扱うのに敬意を払わなければならない。雌山羊はあなたの妻であり子山羊はあなたの子どもであるので狩ってはいけない、雄山羊だけ狩りなさい、彼らは肉と毛皮をとられても本当に死ぬのではなく、家に帰ってくるだけなのです。

この神話は彼らの「エコロジー科学」を反映しており、ここには「結婚とは、自分とは異質な生き方をしている人々のことを理解し、共感をもって愛する貴重な機会をあたえてくれるものだ」(p.44-45)という彼らの哲学が語られています。

第二章 原初、神は熊であった

現生人類種の前、ネアンデルタール人やクロマニョン人においても、熊に対する儀式が行われていたと推測されています。狩猟採集民において、熊は森に住む動物たちの首長と考えられていました。その首長である熊を丁重に葬ることで、熊の霊を通して、他の動物たちとの関係も良好になるでしょう。

熊と結婚し、家に戻った少女が、熊の毛皮をかぶせられた途端に熊へと変わり、兄弟たちを殺し子熊を連れて森に返っていく神話があります。こういうことがあって熊は半分人間になり、人々はグリズリー熊の肉を食べなくなった、と伝えられています。現生人類は流動性知性によって、人間が熊になり、熊が人間になる、このような「人間的な心」を持つことになりました。

第三章 「対称性の人類学」入門

最初の現生人類たちは詩や音楽で語り合っていたというルソーの考え方は、あながち噓とも言えません。神話の思考も詩と同じように「比喩」の能力を活用していることが昔から知られています。

実際の狩猟において見えるのは熊を殺している光景です。しかしそのことの意味を、神話のある世界の人々は、人間と熊がお互いにその存在を行き来し、友人として贈り物を送り合う関係として描き出します。贈与を送り合う関係といっても、実際には人間の側の都合で狩りが行われるので不均衡が生じます。神話の論理と現実との乖離をその世界の人々は認識していて、神話にもそれが表現されています。「狩りとはかつて、威儀を正した一種の決闘だったのです。それは、ことばの原初が詩であり、交換のはじまりが贈与であったのと同じように、あらゆる戦いは純粋な状態では、決闘に浄められていくからです。」(p.97)

第四章 海岸の決闘

神話におけるシャチの扱いは熊とは異なるようです。シャチの神話では、シャチが剣を持って獣をもてあそんだり、シャチから手に入れた剣で熊を切りつけて殺したりといった、狩猟世界の倫理から外れた行動が語られます。ウリチの神話で語られる剣は、どうやら日本刀のようで、技術によって壊されてしまった自然との対称性について語られています。人と魚との間に生まれた子に、剣によって傷つけられた熊は自爆的な決闘により、その子と相打ちになることで対称性を回復しようとしています。ここでは一つの「技術論」が語られています。

第五章 王にならなかった首長

シャーマンとは熊となって自然界の力を手に入れた人間のことです。シャーマンは社会の周縁部にいて権力の中枢には近づけないようになっていました。社会の中心、自然に対する文化の中心に位置したのは首長でした。首長は交渉と調停の人であり、気前良さを持ち、弁舌さわやかで歌と踊りを得意とする人がなることができました。平和時に力を持つのは首長ですが、戦時では戦士たちの長である将軍が権力を握りました。彼らの文化では対称性を守るため、首長は将軍としての力を手に入れて「王」となることは決して許されませんでした。

第六章 環太平洋の神話学へ Ⅰ

環太平洋には、移住した人々によって、深いつながりを持った文化が保たれていました。彼らの社会はすでに階層化されて国家の手前まで来ていたのですが、ついに国が作られることはありませんでした。対称性社会の思想を大事にする人々は、様々な方策を用いて、クニが生まれるのをその目前で防いでいました。

第七章 環太平洋の神話学へ Ⅱ

折口信夫は「ふゆ」(冬)をタマ=霊魂が「ふえる」期間だと考えました。彼のタマ論は、寒い時期に行われる日本の祭りと、ボアズによるアメリカ大陸北西海岸インディアンの祭りの記録をもとにしています。

その地方のインディアンは夏と冬で大きく生活形態が変わります。夏の間は冬の準備のための漁労や狩猟、採集の共同生活を送っています。しかし冬になると社会構造が解体され、それぞれの秘密結社にわかれお祭りが行われることになります。

結社の中でもっとも格が高いとされるのがアザラシ結社で、この結社では一人前の結社員になるには人食いである「ハマツァ」になることだとされています。結社員は人食いの親玉「バフバクアラヌフスィウェ」に食べられることで人食いとなると考えられているのです。夏の間は人間が動物を殺して食べる季節で、冬は人間が自然の精霊に食べられる季節であり、ここには対称性社会の倫理が表現されています。

夏の世俗的な季節のリーダーは「首長」であり、冬では秘密結社のリーダーです。また戦士のリーダーとシャーマンもいます。このうち秘密結社、戦士のリーダーとシャーマンは自然の中に隠された力を引き出し身につけた存在です。彼らの社会では首長とその他のリーダーが泰然と分けられていて、一緒になった一つの存在、つまり王となることがないように細心の注意が払われていました。

第八章 「人食い」としての王

階層化の臨界点に達していた彼らの社会のどこかで、自然のものである権力を個人に取り込んだ、王が生まれました。人食いに食べられた人間は個体性を失って人食いになって生まれてきますが、祭りの季節が終わるともとの文化的な生活に戻っていきます。しかし王に取り込まれた人間はクニの民となり、クニの社会の外に出ていくことはできなくなります。

スサノオの神話は王の誕生の複雑なプロセスを、実に明快に表現しています。もともと荒くれものだったスサノオは、人食いである大蛇を倒し、首長の娘と大蛇の体内から現れた剣を手に入れ、王となるのです。

人間に生まれた流動性知性は、対称性の倫理を発達させたのですが、同時にそれを突き破ってしまう力も秘めています。「文化」と「自然」のハイブリットが「文明」であり、そこから「野蛮」が生まれました。「野蛮を生んだのは、文明なのです。国家が野蛮を撲滅することは、不可能です。それは、野蛮の発生を土台にして、国家はつくられているからです。」(p.202)

終章 「野生の思考」としての仏教

国家の権力に対抗するため、新しいタイプの「知恵の教え」を説く人たちが現れました。その教えの一つである仏教は、サーキャ族の王子ゴータマ・シッダールタによって唱えられました。この小さなクニは共和制に近い国家であったとされています。

仏教の基本となるのは仏(ブッダ)・法(ダルマ)・僧(サンガ)です。ブッダは「王者」ではなく、知恵によって人々を導く「勝者」であるといわれています。ブッダは「自然」のもつ無化する力を、「空」として概念化しています。国家の権力もこの空の力によって無に帰し、自然へと還ります。また、僧(サンガ)の共同体により、国家の中に「国家に抗する社会」が組み込まれることになります。

空は人食いであると共に慈悲深い贈与者でもあります。これを聞いてすぐに思い浮かぶのは熊にほかなりません。

補論 熊の主題をめぐる変奏曲

狩猟採集民の移住に伴い、熊神話はその地方の動植物に合わせて変形されていきました。熊のいない地域ではジャガーや蝶がその代わりを務め、熊神話と類似の神話が語られていきます。レヴィ=ストロースは『神話論理』において、変形されながらも変わることのない構造を見出しています。

日本においても、岩手県気仙地方に「鮭の大助」の言い伝えが残っています。鮭の大助に助けられた人が、自分の住む世界の危機に直面したときに、今度は自分が鮭の大助となって自己犠牲の精神を発揮することによって、その世界を救おうとしました。

熊を主題とする神話的思考のさまざまな変奏曲は、「一万年以上もの時間を隔てながら、人間と自然の奥深いつながりを歌いあげるその調べを、私たちのもとへ届けてくれているのです。」(p.244)

3.全体まとめ

ざっと上の要約をもとに本の内容をまとめると次の感じです。

神話のある世界では権力は自然の中にあるものです。熊が象徴としてその権力を体現していて、人食いでありながら恵みを与えてくれる慈悲深いものです。「理性」の領域のリーダーは首長で、自然の権能を取り込んだもう一方のリーダーが戦士、秘密結社のリーダー、シャーマンです。対称性の社会では、これらの二つの種類のリーダーが一つになることがないような仕組みがありました。しかしすでに階層性が十分に形成されていた彼らの社会のどこかで、首長が権力を取り込んで王となりクニが生まれます。「人食い」に食われた人間は「人食い」になって、冬の終わりとともに文化の領域に人として戻ってきます。しかし王という人食いに食われた人間は、国民となってそこから逃れることはかないません。そのうち国家の権力に対抗するため、新しいタイプの「知恵の教え」を説く人たちが現れ、仏教もそんな知恵の一つです。ブッダの説く「空」は人食いであると共に慈悲深い贈与者でもあります。「空」とは「熊」にほかなりません。

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等比数列の極限

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1.数列の極限値

極限を取ったときの収束と発散の場合分けをもう一度示しておきます。

\begin{equation} 収束:\lim_{x \to \alpha}f(x) = \beta\\ 発散: \left\{ \, \begin{aligned} & \lim_{x \to \alpha}f(x) = \infty\\ & \lim_{x \to \alpha}f(x) = -\infty \end{aligned} \right. \\ 極限値なし:「-1, ~1, ~-1, ~1, ~\cdots」など \end{equation}

数列でn→∞のときの極限を考えることができて、やはり収束する場合と発散する場合があります。具体例を四つ示します。

\begin{equation} 一般項a_n=2n-1の場合、a_n=1, ~3, ~5, ~7, ~\cdots \\ \lim_{n \to \infty}a_n = \inftyとなり正の無限大に発散\\ \\ 一般項b_n=-n^2の場合、a_n=~-1, ~-4, ~-8, ~-16, ~\cdots \\ \lim_{n \to \infty}b_n = -\inftyとなり負の無限大に発散\\ \\ 一般項c_n=\frac{1}{n}の場合、c_n=1, ~\frac{1}{2}, ~\frac{1}{3}, ~\frac{1}{4}, ~\cdots \\ \lim_{n \to \infty}c_n = \frac{1}{\infty}=0となり収束\\ \\ 一般項d_n=(-1)^nの場合、d_n = -1, ~1, ~-1, ~1, ~-1, ~\cdots\\ \lim_{n \to \infty}d_n は極限値を持たない \end{equation}

上で示したように数列で項数を無限に大きくしたとき、その数列ごとに結果が収束・発散(極限値あり)、極限値なしのいずれかとなります。

2.等比数列の極限

初項a、公比rの等比数列の一般項はarn-1です。初項a=1として、いくつかrの値を変えて一般項を示すと下のようになります。

\begin{equation} r=2のとき、a_n=1, ~2, ~4, ~8, ~\cdots ,~2^{n-1}\\ \\ r=-2のとき、a_n= 1, ~-2, ~4, ~-8, ~\cdots, ~ (-2)^{n-1}\\ \\ r=\frac{1}{2}のとき、a_n= 1, ~\frac{1}{2}, ~\frac{1}{4}, ~\frac{1}{8}, ~\cdots, ~(\frac{1}{2})^{n-1}\\ \\ r=-\frac{1}{2}のとき、a_n= 1, ~-\frac{1}{2}, ~\frac{1}{4}, ~-\frac{1}{8}, ~\cdots , ~(-\frac{1}{2})^{n-1}\\ \\ r=1のとき、a_n= 1, ~1, ~1, ~1, ~\cdots\\ \\ r=-1のとき、a_n= 1, ~-1, ~1, ~-1, ~\cdots \\ \end{equation}

関連ページ:等比数列

したがって各数列の一般項において、n→∞で極限をとると次のようになります。

\begin{equation} r=2のとき、\lim_{n \to \infty}2^{n-1}=\frac{1}{2}\lim_{n \to \infty}2^{n}=\infty\\ \\ r=-2のとき、\lim_{n \to \infty}(-2)^{n-1}=-\frac{1}{2}\lim_{n \to \infty}(-2)^{n}となり極限値なし\\ \\ r=\frac{1}{2}のとき、\lim_{n \to \infty}(\frac{1}{2})^{n-1}=2\lim_{n \to \infty}(\frac{1}{2})^n=0\\ \\ r=-\frac{1}{2}のとき、\lim_{n \to \infty}(-\frac{1}{2})^{n-1}=-2\lim_{n \to \infty}(-\frac{1}{2})^n=0\\ \\ r=1のとき\lim_{n \to \infty}1^n=1\\ \\ r=-1のとき、\lim_{n \to \infty}(-1)^{n-1}=-\lim_{n \to \infty}(-1)^{n}となり極限値なし\\ \end{equation}

一般項のところで示したように、具体的に数列を書いてみれば、収束、発散は簡単に予測できます。r>1だと値がrを掛けるたびに大きくなって無限大に発散します。r<-1だと絶対値は大きくなっていくのですが、+と-が交互に入れかわるので極限値なしとなります。-1<r<1の範囲なら、rを掛けるたびに小さくなっていくので、無限に繰りかえして0に収束します。r=1なら1をかけても変わらないので常に1、よって1に収束です。r=-1のときは1と-1が交互に現れ続けるので極限値なしです。初項aの値により正と負が逆転する場合がありますが、それを除いて公比rによって決まります。

rの値による収束、発散、極限値なしをまとめると次のようになります。

\begin{equation} 1 < rのとき\lim_{n \to \infty}r^{n}=\infty~(発散)\\ r=1のとき\lim_{n \to \infty}r^{n}=1~(収束)\\ -1 < r < 1のとき\lim_{n \to \infty}r^{n}=0~(収束)\\ r \leqq -1のとき振動~(極限値なし) \end{equation}

高校の参考書にも証明がのってたりするんですが、ここでは証明は省略させてもらいます。

3.参照文献

  • 参照文献:文栄堂編集部『これでわかる数学Ⅲ』(文栄堂)

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大澤真幸『我々の死者と未来の他者 戦後日本人が失ったもの』書評と要約

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1.評価

評価:

2年前ですが、現時点で大澤真幸の最新の著書にあたります。本の内容を一文で表すと、日本人が未来の問題に対して関心が薄い理由は終戦前後での過去の我々との断絶なので、過去の我々との関係を回復すると共に別れを告げる方法はないか、という感じの内容でした。結論から言うと、求めていた「我々の死者」は得ることができずに終わってます。一般の人の感覚からすると、可もなく不可もなくだと思うんですが、この人の文体とか議論の展開の仕方が自分の波長と合うので、かなり楽しめました。

現在の右傾化と呼ばれる時代で、その時代背景を与える心性とそれを解きほぐす手がかりを与えてくれていると自分は思ってますが実際はどうでしょう?ただまあ、刺激的な論考を提供してくれているのは間違いないです。大澤の悪癖というか(それが魅力と感じる人もいるはず)、数学や物理学を用いた比喩がさして論考の助けになってないのは、この本でも変わらずです。でもこの本ではちょっとだけですし、気が向かない人はそのあたりは読み飛ばせばよいだけなので、個人的には一読をお勧めしたいです。

2.全体のまとめ

先に目次で各章でどのようなことが書いてあったか示しておいてから、全体の内容をざっとまとめることにします。

2.1 著書の目次

目次から各章の部分を引くと下となります。

  • 第1章 <死者>を欠いた国民
  • 第2章 トカトントンは鳴り響く
  • 第3章 二段階の哀悼-その意義と限界
  • 第4章 仮象としての大衆
  • 第5章 青みどろだけがいた
  • 第6章 スロウ・ボートは中国に着いたか

第1章が問題提起で、第2章以降は思想や物語から<我々の死者>を探す思索の旅が続きます。第2章が太宰、第3章が加藤典洋、第4章が鶴見俊輔と吉本隆明、第5章が司馬遼太郎、最後第6章が村上春樹です。その他、安彦良和や「鬼滅の刃」など、多数の作品や作家が紹介されています。

2.2 全体のざっとしたまとめ

以下、著書全体のざっとしたまとめです。

日本では環境問題などへの関心が低く、これは<未来の他者>を持てないためです。そしてその理由は現在の日本の礎となった<我々の他者>を昭和の初めに見出すことができないためです。

戦後の日本人は<戦争の死者>を見捨てて西欧の価値観に飛び乗りました。このことは今の我々の価値観も簡単に捨て去られるようなものでしかない、という可能性を残してしまいます(トカトントンの音がきこえる:第2章)。<我々の死者>を取り戻す必要があるわけですが、そのためにはまずアジアの被害者への謝罪のまえに、日本の戦死者への哀悼が必要だと加藤典洋は考えています。日本の戦死者への哀悼と共に、彼らの考えを否定せざるを得ないのだから、そのことを謝罪することにより、かつての日本人の罪を身に受けることを行わなければなりません。そうしなければ、かつてのアジア人への罪を他人事として謝罪を行ったつもりになるだけだからです(第3章)。

こうして我々は戦時の死者たちと連続し、かつその関係を絶たなければならないことになります。戦前の<死者たち>に現在の我々の価値観につながる契機を見出せれば、このことが可能なはずです。鶴見俊輔は「私」の中核、庶民や民衆の中に、国家に抗う「普遍人」としての心性を、また吉本隆明は原像としての大衆を見出しています。これらは<我々の死者たち>として実在してはいません。しかし吉本の用いた、井の中の蛙は井の外に虚像をもつのではなく、井の中にあることで井の外につながっている、という「井の中の蛙」の喩えがヒントを与えてくれます(第4章)。

司馬遼太郎は現在の日本を作り出したと思えるような人物を、小説によってつくり出そうとしてきました。しかし昭和初期の時代の物語だけは描き出すことができませんでした。他の書き手による昭和初期の物語、例えばノモンハン事件を題材にした物語の場合、主人公は日本人たり得なかったり、架空の都市を舞台にしたり、日本軍を敵対勢力とせざるを得ませんでした(第5章)。

唯一、ノモンハン事件を現在の価値観を介入させることなく描いた作家に村上春樹がいます。村上は井の中を通じての「壁抜け」のアイディアにより、日本人により処刑された中国人を反転させた、中国人により処刑された日本人をもって日本人の罪の償いを示唆しています。

『ねじまき鳥クロニクル』の主人公は、革命家として新しい未来の到来を信じているからこそ、他人とは異なる過去をみることができたといえます。この二つのことは別のものではなく、同じものの二つの側面です。ガザ戦争のように、かつての日本が犯した過ちを体現するかのような戦争に対し、日本が仲介者としての役割を積極的に担うことができたとしたら、結果的に、<我々の死者>は<未来の他者>へと接続されることになるでしょう(第6章)。

3.追記

上のまとめは自分が強引にまとめたものなので、ところどころ自分の言葉の使い方になったり、話のつなぎ方が恣意的になったりしてる部分があります。そこはご了承いただくとして、全体の話の流れ自体はかなり正確に写し取っていると思っています。この本の結論は、日本人が未来へと自発的にコミットするために必要な<我々の死者>の回復が、よりよい未来へと自発的に行動することによってしか成し得ないと言っているも同然なので、問題はかけらも解決していません。大澤がそんなこともわからないはずはなくて、わかった上で、この結論を書き記さずにはおかれなかったのでしょう。

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中沢新一『人類最古の哲学 カイエ・ソバージュI』書評と要約

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1.評価

評価:

中沢新一による文化人類学の人気シリーズ、「カイエ・ソバージュ」シリーズの第一冊目です。文化人類学の「入門書」というわけではないですが、おそらくもっとも読みやすく、かつ文化人類学がどういう学問か垣間見せてくれる良書です。自分も文化人類学はこの本から入りました。

一冊目である『人類最古の哲学』では、現代に伝わる民話やおとぎ話から、神話の思考の特徴を取り出してみよう、という感じの内容になっています。神話にはその社会の構造が反映されているみたいで、社会内の不均衡を媒介物により解消しようとする、そういった特徴があると述べられています。こういった解釈には、現代社会の非対称性を解決する糸口を見つけたい、そんな思惑がもとになっている気がします。

カイエ・ソバージュシリーズは全5巻で、読み返したのはまだこの一冊なので、シリーズ全体がどんな感じだったかは忘れてしまいました。いったんこの本だけで、章ごとの要約をしながら内容を整理してみようと思います。

2.章ごとの要約

序章 はじまりの哲学

神話は人間が最初に考え出した最古の哲学だと言えます。現生人類における異なる認識領域の間の流動性という特性が、神話のもとづけとなっていると考えられます。新石器時代に新石器革命と呼ばれる農業や動物の家畜化が行われ、そしてこの時代に思考の組織化もおこり、神話のベースがつくられたのではないかと推測できます。また、この人類最大の革命は、旧石器時代の狩猟民たちの知識と体験の集積がベースになっていると考えられます。

神話の論理は通常の論理とは違って「感覚の論理」をもちいており、「具体的な感覚素材を象徴的な「項」にして、それらを論理的に組み合わせることで、世界の意味や人間の実存について考え抜こうとしています。」(p.15)。一方で、神話では動物や植物の生態や分類の膨大な知識がもとになっていて、科学との類似性を見せます。しかし神話ではそれぞれの領域に流動的な通路を開くものとして人間に生まれてきたものなので、現代の考え方では全く理解できない筋立てなどが登場します。

第一章 人類的分布をする神話の謎

よく似た内容の神話が世界中で見つかっていて、それはよく似た思考が保存されながら、人類の移動に伴って少しずつ変化していったためではないかと考えられます。南方熊楠は「燕石」の研究を行っていて、「燕石」の物語は「結婚しない娘」または「結婚したがらない娘」の話です。美しい深窓の令嬢が求婚者を袖にしながら、結局は他の動物と結婚したり、はるか異界の地に旅立っていくというのが大まかな話で、この枠組みを共有する物語が世界中にあります。日本では「竹取物語」がこれにあたります。

燕石の要素を持つ物語は、南方熊楠によるとだいたい七つの要素から成っています(ここでは省略)。そこでは燕という動物の性質、特殊な鉱物と植物の間に関係性を見出し、一貫した野生の思考の論理によって、たがいに関連づけられているのがわかります。

第二章 神話論理の好物

人間の文化でいつもとても大きな働きをしているものに豆があります。日本では節分において豆が使われます。豆は「生者と死者のそれぞれの世界の境目にたって、ふたつの世界のコミュニケーション回路を開いたり閉じたりする役をする」(p.67)とても複雑な性格をもつ両義的なものです。また「広い地域で共有されていた神話的思考において、「豆」は男性性の中の女性的なものをあらわすと同時に、女性性の中の男性的なものをあらわします。つまり対立しているもの同士を仲介する働きを「豆」は持っていたことになります。」(p.71)。

ピタゴラスは自身の教団において、豆を食べることと燕を家の中に入れることを禁止していました。豆は生と死を仲介する両義的な存在でしたし、燕は水界に馴染む死の領域に近い恐るべき動物だと考えられていたからです。ピタゴラスは神話的思考と多くの共通点をもつ考え方を持っていましたが、神話的思考を否定しようとした最初の西欧哲学者だとも言えます。

第三章 神話としてのシンデレラ

神話的思考の「残骸」とでも言えるものに「シンデレラ」があります。残骸と言っても、とても美しいみごとな形を持っています。シンデレラ・ストーリーには社会的に高い人と低い人に分離された状態から、仲介によってこれらを結びつけるという、目的があります。シンデレラの仕事場である「カマド」は生者と死者の世界を仲介する場所であり、仲介機能によって、現実世界の不均衡に調停をもたらす役目を持ちます。このようにかつては民話が、現実では決して解決できない矛盾を幻想的に解決する役目を担っていました。

第四章 原シンデレラのほうへ

ほとんどの民話はたくさんのバージョンを持ち、神話も同じでお互いに変形しあって新しく作り変えられていきます。グリム兄弟の「灰かぶり少女」もシンデレラの一つのバージョンで、一般的なシャルル・ペロー版よりも原形をとどめた古いものとなっています。こちらの版では、媒介として灰だけでなく小鳥、豆、鳩、ヘーゼルの木、母親の霊が次々と登場してきます。神話はその論理にしたがって、仲介者を連続して関わらせることで、仲介機能を実現しています。

第五章 中国のシンデレラ

ポルトガルの民話に「カマド猫」というシンデレラの物語があります。この民話では、少女自身が水の中に入って魚との結婚を行うことで、転換が起こります。水界の異性との結婚は神話ではたびたび登場しており、折口信夫によると、これは「族外婚」の問題を反映していたと考えられています。「このポルトガル版シンデレラでは、死者や異界のものたちとのコミュニケーションの回路を開くことの重要性が語られていることがわかります。」(p.131)。

九世紀の中国でもシンデレラの物語が記述されています。この物語では魚の骨が重要な役割を果たし、シャルル・ペロー版と同じく、宴からあわてて戻った娘が残した片方の靴によって、娘は国王の妻となります。捨てられてしまった魚の骨のところは、経済よりも贈与に関わっているといえますが、この中国版のシンデレラには、あからさまな経済的欲望が入り込んできています。

第六章 シンデレラに抗するシンデレラ

北米インディアンのミクマク族は、フランス系カナディアンから教わったシンデレラ物語を、鋭い批評精神をもって作り直しました。ミクマク版シンデレラでは「ボロボロの肌」の少女が、父親からもらったブカブカの靴をはいて、狩りの名手である「見えない人」のもとに、自らおもむいていきます。そして美しい心を持った「ボロボロの肌」は「見えない人」の姿を見ることができ、彼の妻となります。この物語ではヨーロッパ版における女性の受動性や外見への偏執が批判されています。

第七章 片方の靴の謎

シンデレラは片方の靴を残して王宮を去ります。レヴィ=ストロースはオイディプス神話群と関係があると推測しているようです。オイディプス神話では、跛行、なぞなぞ、近親相姦、盲目といった重要な要素が含まれています。イタリアの歴史学者ギンズブルグによると、片足が不自由なことは人間が大地から生まれ、そこにしばられた存在であることと関係しています。オイディプスが片足を引きずっているのは、彼がそこから生まれそこへと還っていく、死者の領域に片足をつっこんでいるためです。そしてシンデレラも生と死の領域を仲介する存在でした。ギンズブルグによると、シンデレラの片方の靴は死者の国(王子の王宮)にいったものの印なのです。

ロシアからトルコ・ギリシャにかけて広く伝承される「毛皮むすめ」の物語では、父親からの近親相姦を嫌った娘が、動物の毛皮をかぶって王宮に身をかくしています。このようにシンデレラ物語とオイディプスの神話には明確な関連性が認められます。一方で、神話的思考と資本主義との結びつきをシンデレラの物語に見出すことも可能です。

終章 神話と現実

神話の思考方法は、具体的に世界と深く結びついた素材が用いられています。神話のもととなった具体性の世界は、現代の視覚と聴覚にかたよったものではなく、五感にもとづいた複雑な世界でした。人間は合理化により、現実世界のあまりの豊饒さを取り除いて、人間の思考と行動で制御できる領域を囲い込んできました。

インドの古代宗教の「ソーマ」は幻覚作用を持つ「ベニテングダケ」を「三つのフィルター」を通して利用可能としたものと考えられています。三つ目のフィルターはバラモン自身の身体で、彼らの身体を通してろ過された尿をミルクに混ぜて飲んでいたようです。実は2000年前からソーマの代用品がソーマとして使われていて、代用品で儀式が可能なのは、現実から乖離した幻想や想像力を利用する宗教だからであり、神話ではそうはいきません。イテリメン族の「ベニテングダケ娘」の神話は、現実と幻想の間のバランスの重要さを、我々に警告してくれています。

3.追記

ずいぶん長くなりましたが、章ごとに要約してみると、民話に残された神話的思考を紡いで、神話の思考方式を取り出してみよう、そして現代の問題の根源にある思考方式の変遷をそこに見出そう、という流れが見えてきます。燕、媒介、豆、死者、カマド、水界、その他あらゆる項が螺旋を巻いて、順次連接していっています。この本の構成自体が神話的思考をなぞるように成されています。

文化人類学の本なので、いくつかモデル図(p.68、p.118、p.127)が載せられてましたが省略してます。
文化人類学は構造主義の名で呼ばれることも多くて、この構造は抽象化された概念を用いたモデルのことです。モデル化は文化人類学の魅力の一つで、でも今回の本ではモデル図は特に必要ないとも感じました。図式化が上手くいかなかったのが、レヴィ・ストロースの後継が続かなかった理由なのかな、と勝手に思ってたりします。

それからたくさんの物語が記述されているんですが、ほぼ全部その内容は飛ばしてます。民話や神話の具体的な記述は、ぜひ著書の方で確かめてみてください。

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新装版が出てるみたいなんですが、新装版と自分の読んだ版の違いがあるかもしれないので、電子書籍の旧版の方を貼っておきます。自分は圧倒的に紙媒体派なんですけどね。

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基本的な極限の計算

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目次

1.極限計算で式変形が必要な場合

極限の計算をするための注意事項があります。大きく分けて、極限を取ったときに次の状態になる場合は、先に式変形をしてから極限を求める必要があります。

\begin{align} \infty-\infty\cdots①\\ \frac{\infty}{\infty} \cdots②\\ \frac{0}{0} \cdots③\\ \end{align}

極限計算には前ページで示した極限の性質を利用するので、もう一度必要な部分だけ示しておきます。なお数列の極限と関数の極限の二通りの場合があります。数列の極限は∞でとるので、こちらの場合の変数をn、関数では∞でもa(定数)でもとるので、aで極限をとる場合の変数をxで区別しておきます。実際には、極限計算では両者の区別を特に意識しなくてかまいません。

\begin{align} 数列a_n、b_nにおいて\lim_{x \to \infty}a_n=\alpha、\lim_{x \to \infty}a_n=\betaのとき\\ 1. \lim_{x \to \infty}ka_n=k\alpha\\ 2. \lim_{x \to \infty}(a_n+b_n)=\alpha + \beta、\lim_{x \to \infty}(a_n-b_n)=\alpha – \beta\\ 3. \lim_{x \to \infty}a_n b_n=\alpha\beta\\ 4. \beta\ne0のとき\lim_{x \to \infty}\frac{a_n}{b_n}=\frac{\alpha}{\beta}\\ \\ \lim_{x \to a}f(x)=\alpha、\lim_{x \to a}g(x)=\betaのとき\\ 1. \lim_{x \to a}kf(x)=k\alpha\\ 2. \lim_{x \to a}(f(x)+g(x))=\alpha + \beta、\lim_{x \to a}(f(x)-g(x))=\alpha – \beta\\ 3. \lim_{x \to a}f(x)g(x)=\alpha\beta\\ 4. \beta\ne0のとき\lim_{x \to a}\frac{f(x)}{g(x)}=\frac{\alpha}{\beta}\\ \end{align}

2.極限計算の具体例

「こういう形のときはこういう式変形をすればよい」というのがだいたい決まっていて、練習して式変形の仕方を覚える必要があります。いろいろなパターンがあるので、ここではごく基本的なものだけやり方を紹介したいと思います。けっこうな数の練習問題を解かないと解法が身につかないので、必要な人は問題集やネットの問題をやってみてください。

2.1 ∞-∞の場合

計算例を一題示します。

\begin{align} \lim_{n \to \infty} (n^2-n) = \lim_{n \to \infty} n^2(1-\frac{1}{n})\\ =\infty \end{align}

最初の式において∞で極限をとってしまうと、∞-∞になってしまって結局どうなるのかよくわかりません。直感的に2乗の方がより大きな∞になって、全体で∞になりそうに思えます。実際にそうなのですが、それを計算で示す必要があります。上の例では、次数の大きな方のn2を括りだしてやると、(1-1/n)の形を引っ張り出せます。n→∞のとき1/nは1/∞となり、これは0に収束します。したがって1-1/nは1に収束するので、全体としては∞×1で∞に発散することが示せます。

2.2 ∞/∞の場合

計算例を一題示します。

\begin{align} \lim_{n \to \infty} \frac{n}{n+1} = \lim_{n \to \infty} \frac{1}{1+\frac{1}{n}}\\ =\frac{1}{1}=1\\ \end{align}

直感的に1になりそうですが直接代入すると∞/∞になってはっきりしません。分母の「+1」がなければ約分して1なので、この+1をどうにかしたいです。この場合は分母分子をnで割れば、分母の+1を+1/nにして、極限をとったときに0にもっていけます。したがって全体では1/1で1に収束します。

2.3 0/0の場合

計算例を一題示します。

\begin{align} \lim_{x \to 2} \frac{\sqrt{x+2}-2}{x-2}= \lim_{x \to 2} \frac{(\sqrt{x+2}-2)(\sqrt{x+2}+2)}{(x-2)(\sqrt{x+2}+2)}\\ =\lim_{x \to 2} \frac{\sqrt{x+2}^2-2^2}{(x-2)(\sqrt{x+2}+2)}\\ =\lim_{x \to 2} \frac{x+2-4}{(x-2)(\sqrt{x+2}+2)}\\ =\lim_{x \to 2} \frac{x-2}{(x-2)(\sqrt{x+2}+2)}\\ =\lim_{x \to 2} \frac{1}{\sqrt{x+2}+2}\\ =\frac{1}{4} \end{align}

直接xに2を入れると0/0となってしまいます。こういう形のときは有理化のときに行うのと同じ操作を試してみてください。2乗-2乗の形を作って元の√を消すとたいてい上手くいきます。今度は分母に√が出てきてしまうんですが、別に有理化が目的ではないので問題ありません。0/0の原因になっていた部分を約分等で消せるので、極限が計算できるようになります。

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