従来の心理学における言語獲得理論

心理学分野にももちろん歴史的経緯があり、それまで基底とされたきた考え方があります。心理学分野で参照されている考え方は、私の専門であった言語処理分野とかなりかぶっていて、そこに関しては私は門外漢というわけではないです。このページでまず、従来の心理学分野での言語獲得理論についてまとめておこうと思います。『新・子どもたちの言語獲得』(小林晴美、佐々木正人編著)を参照にするのは変わりませんが、言語処理分野の例も紹介しようと思います。

1.観念連合による言語の獲得

心理学においてはじめに考えられた言語獲得理論は、観念連合によるものだそうです。観念連合によって何かを説明しようとすることは、欧米においては普通のことで、批判も多様な仕方でされています。観念連合の考え方はある前提条件を有していて、刺戟と感覚または表象の間の一対一対応、判断や思考などの知性による連合などです。詳細は省きますが(現象学ページで説明予定)、表象(観念)と刺激との一対一対応は存在しないし、判断や思考作用で知覚世界を原初的に構成するとは考えられないので、知覚の連合で認識を説明するのは無理があります。

その一方で、言語の獲得においては音声と視覚像の間で、表象や観念が連結されて言葉が獲得されているように思えます。心理学や言語処理分野で引き合いに出される批判はたいてい、不完全な入力しか与えられないのに適切な言語規則を獲得できるので、言語の獲得は知性による観念連合ではない、というものです。

ここで注意しておかないといけないことがあって、問題になっているのは「知性」によるかそうでないか、という観点から議論されていることです。言葉が獲得されるとき、音声などの表象と認識に現れてきている表象の間で、何かしらの対応が生じていることは疑うことができません。その対応関係は原初的に知性によって得られているのではない、というのが彼らの主張です。そして知性によってではなく、生得的な言語モジュールが脳にあるとか、生得的な他者の意図を推測する能力が基盤になるとか、人間関係を含む本人を取り巻く世界との生きた関わり合いの中で意味として対応付けられるとか、何によって言語的対応関係が得られているかが、立場によって異なっていると言えます。

2.生成(普遍)文法

心理学分野で観念連合の次に参照されるようになったのが、チョムスキーらの言語理論だそうです。言語処理分野でもまず参照にされるのがチョムスキーの生成文法だったりします。チョムスキーの理論の大枠はそれほど複雑なものではないです。不完全な入力から適切な言語規則を獲得できるのだから、生得的な言語獲得機構(一般に想定されているのは大脳皮質の構造)があるはず、そしてその機構によりどの言語でも文は木構造として構造化されている、という具合です。このサイトでもチョムスキーの言語理論に批判を加えていくことになりますが、言語獲得に何かしらの生得性が関与していることと、ほとんどの言語が木っぽい構造の文を作るというあたりを否定する気はないです。

問題にしたいのは、特化された言語獲得脳領域とか、完全に解析可能な木構造などです。西欧の学問ではよくあることのようですが、ある種の完全性に重みが置かれ過ぎて、周りとの兼ね合いで結果として上手く収束するような仕組みでは満足されない、という事情があるようです。たとえば文構造は交叉を許さない木構造と当初考えられましたが、実際にはもっと自由なセミ・ラティス構造だろうと言われています。

言葉だけではわかりにくいでしょうから、生成文法と連結されることの多い木構造を例示しておこうと思います。挙げるのは言語処理分野の技術の一つである構文解析の例です。

最初に表1のような対応関係を定めておき、これらを解析したい文の各単語に適用していくと、例文「I saw a girl with a telescope. 」では図1のような構造が得られます。

例文では二つの構造が可能で、どちらもSを根に持つ逆さの木のような形をしています。図1(a)の方では「私は望遠鏡を持った女の子を見た」という意味になるでしょうし、(b)の方は「私は望遠鏡で女の子を見た」という意味になるでしょう(何かあぶない意味の文に見えますが昔から例に出されることの多い文で私が作ったわけじゃないです)。どちらの意味かは文脈によりますが、規則を定めておけば計算機で解析が可能です。で、実際のところこういった仕組みで上手くいくかというと、現実の複雑な文ではかなりの割合で上手く意味のとれない構造を作ってしまいます。ただし、部分的なまとまりをつくって、それを組み合わせてさらに大きな部分的なまとまりにして、ということを繰り返すこと自体は、我々が文をつくるとき、たしかに行っていると思われます。

3.言語に関する生得的な能力

言語に関する何かしらの生得的な能力を疑う人はいないでしょう。人間においてのみ象徴としての言葉を扱うことができるのですから。その生得的な能力とは具体的には何か、というところで意見が相違することになります。それは観念連合の立場なら知性でしょうし、生成文法なら言語モジュールでしょう。現在の発達心理学では、環境へと注意を促す基盤的能力と考えられているようです。もう少しいうと、他者の意図を推測し世界を共有しようとする志向性のようなものです。こちらの考え方を、その元になった研究事例と一緒に提示していく予定です。

参照文献:小林晴美、佐々木正人編著『新・子どもたちの言語獲得』(大修館書店) 書評と要約

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言語獲得(心理学分野)ページの全体構成(工事中)

これから発達心理学(言語)を中心に、子どもの言語獲得の仕組みがどのように考えられているか紹介していくことにします。主に参照するのは『新・子どもたちの言語獲得』(小林晴美、佐々木正人編著)ですが、私が全面的にこの本に賛成しているわけではないです。批判とまではいかないですが、疑問点を交えながらの紹介になると思います。その点において指標にしたいのがメルロ=ポンティの考え方です。主に講義録の「幼児の対人関係」から引用する予定で、場合によっては木田元の著書も参照するかもしれません。

このページは全体を見通すための目次的な役割をもたせようと思っているので、後に修正することを前提に作成してます。

全体構成(現在は作成予定)

作成予定ページを箇条書きで示します。

  1. これまでの心理学分野における言語獲得理論
  2. 音声や語彙の獲得に関係していることや利用されているものは何か
  3. 文法の獲得の過程
  4. 言語獲得の状況と認知発達との関係(通常の言語獲得過程と異なる場合から考察)
  5. 幼児の言語の習得と家族的環境とのつながり(メルロ=ポンティ「幼児の対人関係」より)
  6. 幼児の獲得した言葉が本当に象徴的作用によるものかどうか(メルロ=ポンティの癒合的社会性を元にした考察)
  7. 1から6までの議論をその他の分野(現象学、言語学、精神分析等)を参照して考え直す

上記1から4までが『新・子どもたちの言語』を参照にした議論です。そのうち1における言語獲得理論では、心理学で参照にされてきたのがチョムスキーの理論であったりすることから、自然言語処理分野出身の自分でも詳しく書けます。工学(言語処理)ではどのように考えられているかも紹介できると思います。

2から4までが実験結果をもとにした考察であり、元の著書では多数の実験結果が示されているのですが、紹介する実験は必要と思われるごく少数に絞ります。実験の紹介においては、執筆者の解釈に対する自分の不満も示す予定です。

上記5と6はメルロ=ポンティ「幼児の対人関係」(『眼と精神』所収)を参照にした議論です。7では、多分野を総合して自分なりの考え方を示すということなので、ページ作成はだいぶ後になると思います。

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木田元/須田朗編著『基礎講座 哲学』書評

評価:

多くの著者による、看護学生を対象に作られた哲学の教科書という、一風変わった経緯で作られた著書です。木田元と須田朗による編著のため、多くの著者によるにもかかわらず全体としての統一感があります。全8章からなっていて、そのうち第3章からの6章分を20世紀の哲学に割いている、現代哲学の入門書でもあります。

現代哲学の入門書として優れたものであるのは間違いないと思います。対象となっている現代哲学は現象学、プラグマティズム、構造主義、分析哲学等で、20世紀中ごろまでの重要な哲学は網羅していると言っていいんじゃないでしょうか。ただの哲学愛好家として言えば、各哲学の要点を簡潔にまとめながらその問題点をも提示する初学者におすすめの入門書、でもちょっと物足りない、そんな本です。それとは別に看護学生対象らしく、広義の動物学や心身相関、死や全体化の問題についてもかなりのページ数が割かれていて、そこのところはこの本のオリジナルなところじゃないでしょうか。

評価3という少し低めの評価は私にとってで、古代・近代の哲学や現象学については、木田元の『反哲学史』や『現代の哲学』あたりを読んでいると新鮮味はあまり感じなかったためです。初めて哲学または現代(近代?)の哲学に触れる人には、ちょうどよいくらいではないかと思います。

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感想(1件)

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不定積分

微分と対になる概念が積分で、積分は微分の逆操作にあたります。積分には大きくわけて不定積分と定積分があります。記号の意味を理解しやすいのは定積分ですが、不定積分から示されるのが通常で、ここでも計算しやすい不定積分からいくことにします。

先ほど述べたように微分の逆操作が積分であることから、不定積分は微分された関数の微分される前の形を求めることと考えることができます。新しい記号が導入されるので、先に不定積分の書き方を示しておきます。

\begin{align} f(x)の不定積分は\\ \int f(x) dx \end{align}

∫が積分記号でインテグラルと呼びます。dxがxについての積分ですよ、という意味です。積分規則を示す前に不定積分の具体例からみておきましょう。f(x)=2xの不定積分を計算すると、∫2xdx=x2+Cとなります。後ろに突然くっついてきたCは後回しにして、C以外の部分では2xの積分がx2になっています。この計算は微分の逆操作が積分ということを利用していて、実際に積分結果のx2を微分するともとの2xになります。後回しにしたC(積分定数という)も、微分と積分が逆操作ということから説明可能です。定数項を微分すると0になるので、例えばx2+1でもx2-2でも、微分すると定数項の+1や-2が0になって、同じ2xという微分結果になります。なので微分された後の2xという結果には、もとの定数項の情報が消えてしまっているので正確に再現できません。そこで具体的な値はわからないけど、もとの関数には何かしらの定数項がありましたよ、という意味で積分定数と呼ばれるCを加えておく規則になっています。

数学では積分を山ほど計算しないといけないんですが、とりあえず数Ⅱの範囲では次の規則だけ覚えて使えるようになればよいです。

\begin{align} n\neq-1のとき \int x^n dx = \frac{1}{n+1}x^{n+1}+C~(Cは積分定数)\\ \int af(x) dx = a\int f(x) dx\\ \int \{f(x) + g(x)\} dx = \int f(x) dx + \int g(x) dx \end{align}

計算例をいくつか示しておきます。

\begin{align} \int x^2 dx = \frac{1}{3}x^3+C\\ \int \{2x^2-4x\}dx = \int 2x^2 dx – \int 4x dx \\ = 2 \int x^2 -4 \int x dx\\ =2\cdot\frac{1}{3}x^3-4\cdot\frac{1}{2}x^2+C\\ =\frac{2}{3}x^3-2x^2+C\\ \int 2 dx = \int 2\cdot x^0 dx = 2x+C \end{align}

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國分功一郎/山崎亮『僕らの社会主義』書評と要約

評価:

あまり評価していない本の書評も挙げることにしました。自分が評価してなくても、書評を上げておけば、それはそれで他の人の役に立ちそうに思えます。

今回書評を上げるのは、國分功一郎と山崎亮の対談集『僕らの社会主義』です。國分功一郎は哲学者で、何冊か本を読んだことがあるので知っているのですが、もう一人の山崎亮はまったく知らない人で、建築関係の人みたいです。この本は2017年の本なので二人とも40代前半のころですね。対談集は数十冊くらい読んだと思いますが、今思い浮かぶ限りこの本が一番まとまりがないです。重要と思えることがないとかじゃないんですが、重要な情報が散らばってて、その情報を拾い集めて思考のまとまりと成すのは、かなり骨が折れそうです。今回は要約という形でまとめられそうにないので、章ごとに気になったところとか、感想を挙げて終わりにしたいと思います。

各部ごとのまとめと感想

はじめに ポストモダンの素敵な社会主義 國分功一郎

まず「はじめに」は國分功一郎で4ページしかなくて密度が薄く感じます。私はたいてい「はじめに」のところを立ち読みしてから購入を決定するんですが、國分功一郎の『ドゥルーズの哲学原理』を読んだ後だったので、吟味せずに購入してしまった記憶があります。「ポストモダンの社会主義」なので、近代の後の時代に必要な仕組みとして社会主義をもう一度検討しよう、ということでしょう。そんな風にはっきり書いてあるわけではなくて私の感想ですが。「いまの社会はイギリスの初期社会主義を生み出したあの19世紀に似てきているのではなかろうか?」って書いてあるので、間違いではないでしょう。また「イギリスの初期社会主義」が議論の対象となることが「はじめに」からわかります。

第1部 いまこそ大きなスケールで – 政治哲学編

第1部は「大きなスケールで」とあるように、今ある体制だけでなくあり得た体制まで視野を広げて考察しようとしています。そしてその考察のために、今ではほとんど参照されることのない19世紀の社会主義者が紹介されています。写真付きで紹介されている人の名前だけ挙げておきます。ロバート・オウエン、トマス・カーライル、ウィリアム・モリス、ジョン・ラスキン、エベネザー・ハワード、ヘンリエッタ・バーネットの六人です。具体的な内容は次章ですが、基本的に彼らは、大衆がもっと豊かな生活を送れるように、という動機で社会制度の構築を考えていたみたいです。「楽しく働いた結果としての美しい製品に囲まれた生活」を広めたい、と思ってたのだけど、美しくて値段の高い商品になって金持ちしか来なかった、というオチが待ってたようです。そこから社会体制自体を変えないと、と思っていろいろ考えたみたいです。

第2部 あったかもしれない社会主義 – 故郷イギリス編

第2部で具体例です。田園都市を設計して、実際に町を作って、協同組合とかも作ったらしいです。理由はわかりませんが、かなり失敗したけど、協同組合とか協同売店とか、一部上手くいって引き継がれていったものもあるようです。次に服装や建物の装飾について書かれています。一般の人も、豊かな装飾で着飾るべきという感じですが、貧しい人はどうやって?ということはあまり書かれてないです。ただし労働者協会とか労働者大学とか実際に作ったものもあるみたいで、教育を重視していたみたいです。

第3部 ディーセンシーとフェアネス – 理念提言編

第3部は理念提言編となってるんだけれども、ここがこの本で一番弱いんじゃないでしょうか。それがこの本がまとまりなく見える理由でしょう。抽象化された理念って大切ですよね。単純に労働の賃金が安いからではなく、つまらない仕事をしないといけないのが問題だ、みたいな話で、今となっては賃金が安すぎる、または職が無くて食っていけない方が問題になっているんですが、仕事のやりがいとかも重要というのは確かでしょう。

第4部 行政×地域×住民参加 – 民主主義・意思決定編

第4部は住民が参加しての行政の話です。住民参加というと昔は反対運動だったのだけど、住民が行政に作ってほしいものを提起するという形が出てきて、今度は住民がこういうの作るから許可をくださいと行政に言う状態になってきているんじゃないか、とのことです。これはこれでよいですね。ツルペタに補修されて魚がいなくなった川とか、この仕組みでもうちょっと魚が住めるように変えられるかもしれません。川とか山とかなんかツルペタにされること多いですよね。地球にアイロンをかけたい?(「フリクリ」)自分の脳ミソのシワまで伸ばさなくてよいんですよ。

追記

以上、ざっと本の内容をまとめてみました。参考になることはたくさんあるのだけど、なんかやっぱり本の完成度が低いので、評価は低くしときます。それとこの本、社会主義の新しい定義が書いてないんですね。全体主義のイメージがつきまとうのなら、やっぱり社会主義の意味を定義し直した方がいい気がします。「素敵な社会主義」とかのキャッチフレーズではなく。資本主義の方は「無限の更新運動」「無限の蒐集システム」「欲望を金に換えるシステム」「貨幣の自己増殖」等、いろんな定義の仕方があるわけで、でもどの考え方も根っこのところでつながっていると思います。自分の考えている社会主義がどういうものか説明しておくだけで、読後の印象はだいぶ違ってくるのではないでしょうか。やっぱり言葉の力ってすごいですね。

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