対数関数

指数関数と対となる関数があって、対数関数と呼ばれます。この関数は「log」の文字を使ってy=logaxのように書くのでlog関数と呼ぶこともあります。また、この式におけるaを底、xを真数と呼びます。
対数関数は下の関係を持っています。

\begin{align} a^y=x \Longleftrightarrow y=log_a x ~(a>0, ~a\neq1, ~x>0) \end{align}

log関数は、底aを何乗すれば真数xになるかを示す関数で、y=logax(上の矢印右側)ならばaをy乗するとxになるので、式で書けばay=x(矢印左側)です。どのような覚え方でもよいですが、この関係はすぐにでてくるようにしておく必要があります。

そして対数関数には次のような性質があります。

\begin{align} a>0, ~a\neq1, ~M>0, ~N>0のとき\\ \log_a 1 = 0,~\log_a a = 1\cdots①\\ \log_a MN=\log_a M + \log_a N\cdots②\\ \log a \frac{M}{N} = \log_a M – \log_a N\cdots③\\ \log_a x^b = b\log_a x\cdots④\\ log_a b = \frac{\log_c b}{\log_c a}(c>0, ~c\neq1)\cdots⑤ \end{align}

真数が掛け算なら足し算に(②)、割り算なら引き算に(③)、さらに累乗をそのまま係数(④)に変換できます。そのような関数が欲しかったのでそのような性質の関数を作った、と思っておいてください。

いくつか計算例を示しておきます。

\begin{align} \log_2 8 = \log_2 2^3 = 3\log_2 2 = 3\\ \log_6 2\cdot\log_6 3=\log_6 2\cdot3=\log_6 6=1\\ \log_2 9 \cdot \log_3 8 =\log_2 3^2\cdot\log_3 2^3\\ =6\log_2 3\cdot\log_3 2\\ =6\log_2 3\cdot\frac{\log_2 2}{\log_2 3 }\\ =6 \end{align}

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指数関数の方程式と不等式

累乗の形式を含む方程式と不等式の解き方についてです。まずは比較的解くのが簡単な方程式からいきましょう。累乗の形式を含む方程式を解くときは、底(axのaの部分)を揃えるのが基本です。具体例を一つ下に示します。

\begin{align} (\frac{1}{4})^x=8\\ (2^{-2})^x=2^3\\ 2^{-2x}=2^3\\ 両辺の指数を比較して-2x=3、よってx=-\frac{3}{2} \end{align}

次は不等式の解き方で、これは指数関数の形状をもとにすると解けます。次の不等式で説明します。

\begin{align} (\frac{1}{8})^x>2\cdot4^x \end{align}

不等式でも底を揃えるのが基本で、この式では1/2に揃えることも可能ですが、ここでは2に揃えてy=2xの関数で考えることにします。

\begin{align} (\frac{1}{8})^x>2\cdot4^x\\ (\frac{1}{2^3})^x>2(2^2)^x\\ 2^{-3x}>2^{2x+1} \end{align}

底が1より大きいので、y=2xのグラフは図1のような形になります。

xの増加にともなって必ずyも増加する形となっていて、こういった形のグラフになる関数を単調増加関数と呼びます(逆は単調減少関数)。x軸上でbがaより大きければ2b>2aであり、逆に2b>2aのときはb>aでもあります。上の式変形で-3x=b、2x+1=aとしてみると2b>2aとなり、この不等式を満たすのはb>aです。この関係を使うと下のように不等式を解くことができます。

\begin{align} (\frac{1}{8})^x>2\cdot4^x\\ 2^{-3x}>2^{2x+1}\\ 2^b>2^a~(b=-3x,~a=2x+1)\\ よってb>a、つまり-3x>2x+1よりx<-\frac{1}{5} \end{align}

問題によっては底を0から1の間の数に揃えないと後々面倒くさい場合もありますが、ひとまずどちらかの形に揃えると決めて解いていってかまわないです。

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木田元『現象学』書評と要約

評価:

この著書は木田元による現象学の入門書にあたります。50年以上前の著作ですが、現在でも現象学の内容とそれを取り巻く状況をわかりやすく解説した良書です。当時は日本においても現象学への関心が高まっていたらしく、必要性を感じての執筆だったらしいです。

現象学はその始祖に当たるフッサール自身が思想の変遷を見せているため、歴史的経緯をたどっていかないとよくわからなくなるようです。哲学入門書では後期フッサールの思想が全く触れられていないものもけっこうあって、現象学の理解に不適切なものが実際に多々あります。フッサールからハイデガー、メルロ=ポンティへと流れていく思想の流れを理解するのに、歴史的経緯と思想の変遷を関係させて詳述されているこの著書が、最適であるのは間違いないです。

上で「わかりやすく」と言いましたが、私のような門外漢では何度読み返しても理解できないところが多々でてきます。私の理解できた部分をもとにした要約を下に上げておきますので、良ければ参考にしてみてください。もちろん私の理解が適切である保証はありませんので悪しからず。

章ごとの要約

序章 現象学とは何か

日本でも1960年代あたりで、現象学が若者に歓迎されるという事態が起こりました。現象学は「厳密な学としての哲学」を目指して出発したのですが、ハイデガーやサルトルの名と結びついて実存哲学の不可欠な方法とみなされるようになったこともその要因と考えられます。

現象学はフッサールが提唱した哲学的立場ですが、ハイデガーやメルロ=ポンティのもとで変貌していきます。フッサール自身によっても何度も練り直されていくのですが、こういった変遷は諸科学の領域で進行中の方法論的革新を集約し主題化することと関係していたと考えられます。したがって、現象学的運動は今世紀の科学、ことに人間科学の諸領域をおおう包括的な運動と見るべきです。現象学は完結した一つの理論体系とか形而上学のたぐいではなく、開かれた方法的態度だと言えます。

Ⅰ フッサールと時代の思想的状況

まずフッサールは数学者として出発し哲学へと専攻を変えます。当時の心理学では心理学主義(先天的な観念と考えられていた数学的観念や論理学的観念においても経験的心理学的起源を明らかにできるとする考え方)の立場が一般にとられており、フッサールも著書『算術の哲学-心理学的および論理学的研究』で数の概念と数えるという心の働きとの関連を解明しようとしています。一方数学界では極度の形式化が進んでおり、フッサールは次に、このような純粋論理学を構想するとともに、自身のかつて立っていた心理学主義への反省も行います。この時期のフッサールは実在的な対象のほかに概念、命題、真理などイデア的対象の自体的存在を認めるプラトン的なイデア主義に近い立場を取っていました。フッサールは、主観的な論理的体験と客観的なイデア的対象性との相関関係を解き明かすために、ブレンターノの「志向性」の概念を援用します。その際の方法として、「いっさいの理論的関心を離れて認識体験を純粋に記述するだけ」の作業を、「現象学」と呼んでいます。

Ⅱ 超越論的現象学の展開-フッサール成熟期の思想-

フッサールの『論理学研究』は心理学主義批判の書で、それをさらに自然主義批判と歴史主義批判まで広げた、厳密な学的哲学の確立を説くのが『厳密学としての哲学』です。近代ヨーロッパの哲学者たちにとっては究極的な根拠をもつ知識の体系であった「学」ですが、こうした体系への信頼が失墜した時代にそれを回復しようとしたのが『厳密学としての哲学』です。

フッサールは自然科学的方法には、自然を所与として素朴に前提してかかる「自然的態度」がひそんでいると考え、それに「現象学的態度」を鋭く対比させようとしています。対象や事態を「ある」と決めてかかる断定の保留を、フッサールは「現象学的還元」と呼んでいます。当時のフッサールは超越論的還元により我々の意識は世界さえも志向的相関者としてもつ超越論的意識となると考えており、超越論的還元により、いかにして世界といった意味が形成されてくるかを見きわめようとしました。

Ⅲ 生活世界の現象学-フッサールの後期思想-

フッサールは『イデーン』第二巻において、「自然的態度」と「自然主義的態度」を区別するようになります。そして還元において超えられるべきであったのは、実は自然科学のように自然を客体化して観る自然主義的態度だったのだと考えるようになります。

前もって与えられている世界をも一つの世界定立であり臆見(ドクサ)だとすると、これは「根源的臆見」(ウアドクサ)と呼ぶべきでしょう。フッサールは意識作用の根底で働く構成機能を「作動しつつある志向性」と呼び、「受動的綜合」という概念を持ち出してきています。後期フッサールの思想において、哲学的主体が現象学的反省によって見出すのは、生活世界への自己自身の受動的な内属です。

Ⅳ 実存の現象学

ハイデガーは『存在と時間』において、哲学は本来、存在者を存在者たらしめる「存在」seinとは何かを問うことと考えており、その手がかりとして人間存在の分析を行ったのですが、「存在一般の意味を問う」はずの下巻が断念されたため、この著作は実存哲学の書と見られることになります。

フッサールは世界の開示のされ方を「受動的な前もっての構成」と言っていましたが、ハイデガーも同様の考え方をしています。現存在が、気がついた時にはいつもすでに世界のうちに投げ出されてあるという「被投性」に受動的契機を、にもかかわらずその世界内存在をおのれの存在として投げ企てうるという「企投」に能動的契機を認め、内存在とはこれら両契機がからみあう「被投的企投」にほかならないと考えています。

Ⅴ サルトルと現象学

当時のフランスでは思想的な逼塞状態があり、それを打ち破るものとしてサルトルは現象学に期待していました。サルトルの心理学批判を簡単にまとめると、心理学で区別されている概念は、実際のところは常識とか直観とかがもとになっていて、学問的な反省を十分に得ていない理念をもちこんでいるわけなので、こういったいい加減な理念にもとづいて蒐集された事実、企てられた実験の成果に科学的価値はたいして認められない、というようなものです。

Ⅵ メルロ=ポンティと現象学の現状

一般的に思われていることと違って、後期フッサールにおける現象学的還元は超越論的観念論ではなくて、人間の世界への内属を前提にその仕方を先入見をいったん置いて観察しようとするものです。後期フッサールと同様に、メルロ=ポンティにおいても現象学的還元で照らし出されるのは「生きられる世界」です。たとえば心理学における「恒常仮定」や主知主義では、「ミュラー-リア―の錯視」や、地平線にある月は天心にあるときよりも大きく見える場合など、実際の観察結果を説明できません。客体的世界の手前に、それ自身の規則に従って分節する構文法があるはずで、この構文法によって組織される意識の状態を見つめなければならない、それを教えたのがゲシュタルト学説であるとメルロ=ポンティは考えています。

意味というものは有機的全体として現す構文法によって生じます。また知覚は所与の配置とともにそれらを結合する意味をも一挙に生み出す働きです。さらに「意識的」ということは、対象の同一化作用を介しての自己統覚を伴う、ということとして考えられます。メルロ=ポンティは知覚経験の主体を「自己の身体」と考えていて、知覚的な世界経験はまだ意識的ではないとされています。我々の知覚は身体的な実存であり、身体そのものが意識の根源的な在り方だといえます。そのことから、我々にとって世界は相互感覚的統一として現れますが、その統一をもたらす身体図式の統一は前論理的で不明瞭で潜在的であるので、生きられる世界の統一も曖昧な両義的なものだということになります。

メルロ=ポンティの相互主観性の考え方は、ヴァロンなどの発達心理学を参照にしています。ヴァロンなどの発達心理学では、ある時期の幼児は自分の身体に当てはまることは他人の身体にも当てはまると考えている、とされています。この一種の癒合性は、三歳の危機と呼ばれる時期においてのりこえられるのですが、かつての癒合性が完全に失われるわけではなく、成年期の思考の底に幼児期の思考がとどまり、しかも成人の相互主観的世界においてこの癒合的関係がそれなりに寄与していると考えられます。

終章 何のための現象学か

ヘーゲルとフッサールの「現象学」には類似点があるとメルロ=ポンティは考えています。ヘーゲルの考えでは、精神は現象を介してしか知られえないものであり、フッサールも現象の研究を通して理性の性質をあらわにしようとしていて、ここに二人の現象学の共通性が見出せるのではないかと考えられています。

レヴィ=ストロースは、芸術、神話、儀式などのさまざまなシステムの錯綜した全体が社会であると考えています。彼は「社会構造」と「社会関係」の区別を設けていて、前者は抽象度の高いモデルであり、後者はそのモデルを構成するのに使用される初次的素材のことです。メルロ=ポンティが構造と呼んでいるのはむしろ社会関係の方で、彼の関心が、構造という概念によって開かれてくる新しい現象学的地平にあるために、意図的な歪曲がなされたと考えられます。

ここまでを振り返って我々にとっての現象学の意義を考えると、生きた経験に還って問うことが現象学的態度であり、諸科学の成果を生きた経験の全体のうちに位置づけることのできる「開かれた方法」として、現象学を見出すことができます。

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宇野重規『民主主義とは何か』書評と要約

評価:

民主主義について歴史や現代の問題点を提示しながら、民主主義とは何かを問い直そうという本です。「民主主義」をどう考えるかは諸説あるようで、この著書では「参加と責任のシステム」として話が進められてます。読みやすい本であり、提示された情報も多い良書だと思いながらも、話のつなぎ方が自分とは合わなかったので評価3にしました。一般には、もうちょっと評価は高めのようです。

下に章ごとの要約を上げておきます。

章ごとの要約

第一章 民主主義の「誕生」

ギリシアのポリスは都市国家であることから、官僚や常備軍、宗教的支配を担う神官を必要とせず、都市周辺で農業を営む人たちが自ら国政を担うようになります。古代ギリシアの民主主義の発展には戦争が大きく関与しており、戦争に参加した市民の貢献により、彼らの資格は拡大していきます。民主主義の発展にはソロンの改革とクレイステネスの改革が大きな役割を担いました。ソロンが行ったのは債務の取り消しと債務奴隷からの解放で、結果として平民層からも国政の中枢に参加する道が開かれることになりました。続くのがクレイステネスの改革で、僭主ヒッピアスを追放し、市民を血縁や地縁によるしがらみから解放し、再編された市民団を都市の政治と直接結びつけるものでした。

すべての事柄について最終的な決定の権限を持つのが民会であり、これはごく一般の市民が参加するものでした(女性、居留外国人、奴隷は除く)。古代ギリシアの民主主義には「参加と責任のシステム」という特性を見ることができます。民会に出席して発言することそれ自体が、市民として誇るべきことであり、その務めであると考えられていました。また政治権力者が不当な権力を行使しないように、権力者に説明などの責任を問う仕組みが成立していました。古代ギリシアの人々は、民主主義の制度と実践についてきわめて自覚的であり、これに誇りをもち、自らのアイデンティティとしていました。

第二章 ヨーロッパへの「継承」

まずイタリアのコムーネと呼ばれる都市国家共和国に、代表制の萌芽をみることができます。一方、西欧では王権による中央集権化が進み、これに対抗する社会の力も強まりました。集権化する国家とそれに抵抗する社会集団の間で力の均衡がとれているときのみ、「国家は社会に対して一定の説明責任をもつことになりました」。この均衡がとれた国の一つがイングランドです。十七世紀の革命を通じて、十八世紀には議会主権が確立し、十九世紀以降に選挙権が拡大しました。一般的な理解と違ってアメリカ「建国の父」たちは民主主義に警戒的だったのですが、フランス人貴族のトクヴィルは、地域の諸問題の解決に参加する市民の活動に、民主主義の力を見いだしています。

第三章 自由主義との結合

民主主義を考えるには、一般的な対象を規定するものとしての法、社会を代表するという議会の機能、実際に政策を実行する執行権の力、これらについて考える必要があります。トクヴィルは民主主義の本質を人々が自ら統治をおこなっていることにあると考え、ジョン=スチュアート・ミルは少数派の声を代表することの意義を強調し、平等に代表されたすべての国民が、すべての国民を統治する体制と考えています。またバジョットは立法権と執行権の対抗と連携の可能性を検討しており、彼によると、政治制度は必ずしも機能的な部分だけで構成されているのではなく、むしろ人々の感情や情緒に訴えかける部分を含んでいなければなりません。

第四章 民主主義の「実現」

近代から現代までの民主主義の議論として、マックス・ウェーバー、シュミット、シュンペーター、ダール、ハンナ・アーレントらの議論を挙げることができます。ウェーバーは強大な権力を持つ大統領制、シュミットは危機において超法規的な役割をはたす独裁、シュンペーターは人民が代表者を選ぶ仕組みとしての民主主義理解、ダールは政党など様々な利益集団の多様性や多元性による支配「ポリアーキー」の考え方を提示しています。アーレントは社会や国民国家からこぼれ落ちてしまったモッブに着目し、彼らは議会制民主主義を見捨て、むしろ自分たちを導く強力な指導者を求めることを示しています。

第五章 日本の民主主義

日本の民主主義の場合、何を基準にして民主主義とみなすか判断が困難です。一つの焦点となりうるのは、幕末における「公論」をめぐる議論の盛り上がりです。横井小楠の身分を超えた公共の討論という「公論」の思想は、下級士族の主導によって実現した明治維新以降の政治にたしかに影響を与えました。幕末においては人々が独自に提案を行うようになり、全国の浪士の交流の結果、「身分」によるのではなく「志」によって結集する「志士」が生まれ、このような横の連帯が明治維新を推進する力となったと考えられています。明治憲法体制には権力分立的性格があり、結果として議会制と複数政党制による政党政治がもたらされたとする考え方が存在します。この考え方が適切であるとすると、近代日本において、少なくとも一度は「政治」が成立したとみなしてよいでしょう。

結び 民主主義の未来

民主主義を考えるために提示される問いは次の三つです。

  • A1「民主主義とは多数決だ。より多くの人々が賛成したのだから、反対した人も従ってもらう必要がある」
  • A2「民主主義の下、すべての人間は平等だ。多数派によって抑圧されないように、少数派の意見を尊重しなければならない」
  • B1「民主主義国家とは、公正な選挙が行われている国を意味する。選挙を通じて国民の代表者を選ぶのが民主主義だ」
  • B2「民主主義とは、自分たちの社会の課題を自分たち自身で解決していくことだ。選挙だけが民主主義ではない」
  • C1「民主主義とは国の制度のことだ。国民が主権者であり、その国民の意思を政治に適切に反映させる具体的な仕組みが民主主義だ」
  • C2「民主主義とは理念だ。平等な人々がともに生きていく社会をつくっていくための、終わることのない過程が民主主義だ」

これらの対立的な問いは、どちらもある程度正しいのであり、両者の間の補完や結び付けが必要となります。

現在、ポピュリズムの台頭、独裁的指導者の増加、第四次産業革命とも呼ばれる技術革新、そしてコロナ危機という四つの危機が存在します。これらの危機に際して、「公開による透明性」、「参加を通じての当事者意識」、「判断に伴う責任」という信念が、民主主義をどこまで信じることができるのかが問われています。

最後に

上の要約を改めて見返すと、自分の関心によって話がつなぎ合わされているのがわかります。著書の意図はある程度汲んだ要約にはなっていると思いますが、自分の関心のあるところを引っ張ってきているので、要約に自分の考え方が入り込んでいるでしょう。重要な知見を提供してくれる著書であるのは間違いないので、内容が気になった人は著書の方を読んでみてください。

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指数関数

指数法則の拡張ができたので、次は指数関数についてです。この関数は自然界の法則との対応性が高いため、いろいろなところで使われています。指数関数はy=axの形の関数で、a>0かつa≠1と定義されています。関数なのでグラフの形状が重要で、大きくわけて二つの形に分かれます。先に大まかな形を示すと、a>1のとき図1(a)、0<a<1のとき図1(b)となります。

まずa>1の場合について、y=2xの具体例で考えます。関数なのでxとyの関係式であり、xがある値に決まるとyも決まります。代表的な値でxとyの関係を表にしてみます。

x-4-3-2-101234
y1/161/81/41/2124816

0乗は1と決められているので、どの指数関数でもx=0のときy=1となります。xの値を1、2、3と大きくするとyの値は2、4、8と急激に大きくなっていきます。逆に-1、-2、-3と小さくすると1/2、1/4、1/8と急激に小さくなって、0に近づいていきます。y=2xのグラフは図2のようになります。

0<a<1のときは図1の(a)と(b)の関係のように、a>1のときの形をy軸に関して反転させたような形になっています。たとえばy=(1/2)xの関数であれば、a=1/2で0<a<1の範囲にあるので図3の形となります。aの範囲からこの形状を判断してもよいですし、y=(1/2)x=2-xに式変形してy=2xのy軸対象のグラフと考えてもよいです。

最後に注意点として、指数xの値は実数であることをあげておきます。指数法則は有理数まで拡張したのでした。無理数も無限小数でしか表せないと言えどやはり具体的な数であるので、指数関数ではxの定義域が無理数でも考えることが可能です。そのときの計算とかどうするかは私ではよくわからなくて、とりあえず初年度の大学数学までは有理数のときの計算ができれば問題ないです。

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