マックス・ウェーバーによる近代資本主義の成立の考え方(大塚久雄の考え方) - 趣味で学問

マックス・ウェーバーによる近代資本主義の成立の考え方(大塚久雄の考え方)

1.近代資本主義とは

現代の資本主義社会を生きる私たちですが、資本主義社会に生きているからといって資本主義のことがよくわかっているわけではありません。そもそも資本主義の定義が広く、人によりまちまちだったりします。広く営利を目的とする商業活動を認める経済圏を広い意味での資本主義とすると、このような資本主義は別に珍しいものではありません。現在の我々が生きる社会の経済システムは「近代資本主義」(ここでの「近代」は「現代」とほぼ同義です)と呼ばれていて、資本主義の中でもそれまではなかった特徴が近代資本主義の中に含まれていると考えられています。一般に資本主義の言葉で指されるのは、こちらの近代資本主義のことです。

まず話の前提として、近代資本主義は資本主義(上の広い意味での資本主義)と相性がよさげに見える地域ではなく、営利を敵視するような経済圏、つまり西欧の一地域で成立したという事実があります。近代資本主義の定義も、この事実を整合的に説明するような定義になるはずです。そしてこの事実を踏まえて近代資本主義の成立を本格的に検討し最も影響力をもつのが、20世紀前半に活躍したドイツの社会学者マックス・ウェーバーです。マックス・ウェーバーの主著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は一般の人にも名が知られるほど有名ですが、専門家からの批判も多い著書です。この著書を敷衍して独自の近代論を展開する佐藤俊樹は、これらの批判は妥当なもので、しかしウェーバーの考え方が根本的に間違っているというのではなく、重要な事実を見逃しているためだと述べています。

マックス・ウェーバーの考え方がどれだけ妥当であるかはひとまず置いておいて、ここでは彼の考え方をだいぶ簡略化して説明したいと思います。といっても私の能力で『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を一人でまとめるのは無理な話なので、この著書の訳者である大塚久雄の「訳者解説」をここにまとめることにします。訳者解説は『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の巻末におよそ40ページあります。大塚久雄による解釈はすごく納得のいくものなんですが、本当にマックス・ウェーバーの考えたことを正確に伝えているかどうかは、怪しいところもあるみたいです。この本はものすごい量の注釈を無視して読み進めば、どうにもわからないというものではなく、訳者解説と本文とを照らし合わせてみて、確かに解説と本文の内容はだいたい一致していると思われます。私の解釈が間違っている可能性も十分にあるので、そこはご注意ください。

2.ウェーバーの用語まとめ

このページで使用したウェーバーの用語で、わかりづらいものや意味が一般の場合と異なるものをまとめておきます。

資本主義暴力を伴わない経済的な営み全般のこと。ある種の合理性を伴った広義の資本主義は古代よりある珍しいものではない。
近代資本主義近代(現代をも含む)に成立した新しい資本主義。簿記を土台として営まれる合理的な産業経営的資本主義。
天職神に与えられた職業であり、専心しなければならない活動。
世俗内禁欲禁欲とはあらゆる欲望を抑制してあることに打ち込む能動性をともなう行為。司祭のように俗世から離れた職業が貴いのではなく、世俗の中でのその職業に専心する方が神から与えられた大切な営みだ、とする考え方。もしくはそのような習慣。
資本主義の精神労働者であっても広く見られる、規則を守りできるだけ経営利潤が多くなるように(自分の利益にならないにかかわらず)進んで働く、心理的様態やその行動様式。
キルへ(教会)とゼクテ(信団)キルへは古い歴史と教権者層(宗教官僚)をそなえた大規模な組織。ゼクテは信仰を同じくする人々が集まって運営する組織であり、各人の自由意思で集っているという前提があった。

3.近代資本主義の成立

3.1 簡単な結論

先に結論を書くことにします。近代資本主義は資本主義と相性がよさげに見える地域ではなく、営利を敵視するような経済圏、つまり西欧の一地域で成立しました。この事実の説明は次のようになります。

禁欲的プロテスタンティズムから派生した「世俗内禁欲」のエートスの持ち主たちが、神からあたえられた天職として自分の世俗的な職業活動に専心した結果、無駄な消費はしないのでお金が残ります。彼らはたまったお金を公のために役立てようとして寄付したり、さらなる投資に回します。その結果、「合理的産業経営を土台とする、歴史的にまったく新しい資本主義の社会的機構」がだんだんと形成されていって、そのうちそのような経営の仕方でないと続けていけなくなります。ここまでくると信仰心はいらなくて、近代資本主義を可能にする「資本主義の精神」へと続いていくことになります。

ただ気をつけないといけないことがあって、実際には複雑な歴史の流れの中で、一つの、しかし重大な変化を禁欲的プロテスタンティズムがつけ加えた、といった具合で、多数の要因の中の重要な一つとヴェーバーは考えていました。

3.2 近代資本主義の合理性と西欧の非営利的なエートス

ウェーバーの言う「資本主義」は暴力を伴わない経済的な営み全般のことで、こういう広義の資本主義は古代からある珍しいものではないです。西欧近代に出現した資本主義は確かにそれまでと違う特質を持っています。ウェーバーは近代資本主義の特徴として産業経営的資本主義を挙げています。これは簿記を土台として営まれる合理的な産業経営、その上に築かれていく利潤追求の営みを指します。ウェーバーが重視したのは、合理的な産業経営を可能とする、人々の倫理的雰囲気、行動様式の方で、これが「資本主義の精神」や近代資本主義の「エートス」と呼ばれるものです。そして資本家のみならず、多くの労働者も同様に「資本主義の精神」の担い手になったということが重要です。労働者たちが、あたかも天職があたえられたかのように工場での労働に励む、そういった精神的な特性をもつことで初めて、技術革新に依拠する産業資本主義が可能となりました。

3.3 「資本主義の精神」のもととなった天職概念(世俗内禁欲)

結果として「資本主義の精神」へと至ることになった心理が「天職」概念、およびそれとほぼ同義の「世俗内禁欲」だと考えられています。天職の方は一般的な日本語の天職と類似しますが、日本語の意味の生まれつき一番向いている仕事といったものではなく、神に与えられた職務として明確に意識されるものです。神に与えられた仕事であるので、脇目も振らずその仕事に専心するわけです。

一方「世俗内禁欲」の字面からは、これが神に与えられた天職とほぼ同義というのは違和感があると思います。この「禁欲」という言葉は、あらゆる欲望を抑制して(禁欲)、そのエネルギーの全てを目的に注ぎ込む、こういった行動様式を指します。ですから禁欲して行動を行わないのではなく、むしろある目標に向かって突き進むとても能動的な行動様式のことです。神に与えられた「天職」であるのだから、他には眼もくれずにその仕事に打ち込むということです。

3.4 禁欲的プロテスタンティズムから世俗内禁欲のエートスへ

ウェーバーによると天職観念はルッターが起源です。天職の概念は、世俗生活から切り離された修道院生活が特別なのではなく、むしろ世俗の中での聖潔な職業生活の方が神から与えられた大切な営みだ、とする考え方です。しかしルッター派から世俗内禁欲は生まれず、カルヴィニズムなどの禁欲的プロテスタンティズムの信徒たちにより、日常生活と彼らの信仰とのかかわり合いのなかで、世俗内禁欲という形に鍛え上げられていくことになります。

ウェーバーは教会(Kirche)と信団(Sekte)を使い分けていて、大塚によるとSekteは普通の用法をそのまま訳すと意味が通じなくなるので、この本では信団と訳したそうです。教会の方は、古い歴史を持ち、信徒への救いの授与を独占する教権者層(宗教官僚)をそなえた大規模な組織です。これに対して「信団」の方は、すでに神から救いを当てられていると信じている人たちが、そうした信仰を同じくする人々によって、みずからの自由意思に基づいてつくり上げられた集団です。前者がカトリックの教会で後者がプロテスタントの組織と言ってよいでしょう。信団に所属する彼らは、自分が神に救いを与えられているという信念から、自分の行動を神の説く(とされる)行動へと一致させようとし、天職概念または世俗内禁欲のエートスが養われていきます(ここは社会学者の大澤真幸の考え方を借用しました)。

3.5 世俗内禁欲から資本主義の精神へ(結論)

まず近代資本主義は、一見資本主義と相性の悪そうな営利を敵視するような経済圏、つまり西欧の一地域で成立しました。近代資本主義成立の理由を考えるには、この事実を説明するものでなくてはなりません。近代資本主義は産業資本主義であり、合理的産業経営を営んでいくには、経営者だけでなく多くの労働者の側に、規則を守りできるだけ経営利潤が多くなるように進んで働く、そういった行動様式が必要です。それが「資本主義の精神」と呼ばれる心理的様態、行動様式となって現れる精神性です。そしてこの精神を結果として産み出したのがプロテスタンティズムであり、それが故に「近代」の資本主義は西欧においてのみ成立可能でした。

ルッターを起源にして、世俗生活から切り離されるのではなく、世俗の中での聖潔な職業生活の方が神から与えられた大切な営みだとする、「天職」概念および世俗内禁欲の考え方が広く共有されている人たちが現われます。彼らはあらゆる欲望を抑制(禁欲)して、神に与えられた天職である各仕事に専心することになります。世俗内禁欲を鍛え上げていくのは、実際にはルッター派ではなく、カルヴィニズムなどの禁欲的プロテスタンティズムの信徒たちです。そこでは「ゼクテ」と呼ばれる、すでに神から救いを当てられていると信じている人たちが、そうした信仰を同じくする人々によって、みずからの自由意思に基づいてつくり上げられた組織が営まれていました。その組織は教会のような古い歴史と教権者層(宗教官僚)をそなえたものではなく、各信徒がみずからの自由意思に基づいて、組織のあり方を作り変えていくような組織です。

禁欲的プロテスタンティズムの信徒たちは、自分の世俗的な職業活動に専心し、得られた収益を公のために役立てようとして寄付したり、さらなる投資に回します。その結果、組織のあり方や技術・知識体系を自ら作り変えていくような、新しい合理性を持った社会機構がつくり上げられることになります。このような機構が成立してしまえば、それまでの合理性をもとにした機構では利益を得られず営業できなくなってしまうので、やがては新たな合理性を備えた組織へと移り変わっていきます。ここまでくると世俗内禁欲にあった信仰心は必要なくて、明確な信仰ではないけれど自ら規則を守って仕事に勤しむ、「資本主義の精神」へと変わっていきます。このような経緯もあって、科学技術の発展(ここにも「資本主義の精神」と同様の性質が認められる)と結びついた産業経営的資本主義が、西欧において誕生することになります。

3.6 ウェーバーの考え方の問題点

社会学者の佐藤俊樹による、ウェーバーの考え方が根本的に間違っているというのではなく、重要な事実を見逃しているために事実を説明できていない、という意見を1節で挙げました。近代資本主義が科学技術と結びついた産業資本主義であることは間違いなくて、ウェーバーの考え方はこの「新しい資本主義」の誕生を説明しきれていないように思えます。ウェーバーが挙げているのは、簿記を土台として営まれる合理的な産業経営などで、これは実際にはすでに他の地域に実在していたようです。重化学工業の基盤となるような産業経営的資本主義と禁欲的プロテスタンティズムの関係を、整合的に説明する議論を付け加えなければならないでしょう。その答えになるかはわからないですが、今度は佐藤俊樹の『近代・組織・資本主義』の議論をもとに考えてみる予定です。

  • 参照文献:マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫、大塚久雄訳)

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むつきさっち

物理と数学が苦手な工学博士。 機械翻訳で博士を取ったので一応人工知能研究者。研究過程で蒐集した知識をまとめていきます。紹介するのはたぶんほとんど文系分野。 でも物理と数学も入門を書く予定。いつの日か。

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