心と身体の関係
1.意識のハードプロブレム
心や精神に関連する言葉は表象、意識、認識、感情、知覚、その他諸々たくさんあって、このサイトではこれらの概念をまとめて「心的事象」で表現することにします。この心的事象が存在するということがどういうことか、いまだに誰もまともに説明することができていません。心的事象の説明の困難さを一般に「意識のハードプロブレム」なんて呼んだりします。オートポイエーシス論で意識(表象)システムの説明を試みる前に、なぜ心的事象の説明が困難かを示しておきたいと思います。
まず「身体(特に神経系)の作動によって心的事象が現れる」と前提せざるを得ません。ところがこの前提がハードプロブレムを引き寄せてしまいます。「物理的実体」からそれに還元できない「心的事象」が生まれているからです。上の前提を元にして、心的状態の成立に対する考え方は、おおまかに次の二つです。
- 精神の世界が実在し、身体に精神が宿ることによる。
- 身体の作動において、物理的事象から(なぜか存在の位相が変換されて)心的事象が立ち現れる。
この二つの考え方以外を提示できた人間は存在しないでしょう。いたとして本人以外理解できないのですが。どちらも合理的な考え方ですが、そもそも1の立場をとる人には「意識」はハードプロブレムではないかもしれません。意識がハードプロブレムになるのは特に2の立場の人なので、以下、2の立場から問題を考えることにします。
身体の作動と神経系の状態の変化を、高校生物の知識で表現してみます。身体の作動によって、知覚器の興奮により神経系が興奮し伝搬します。本当は神経系自体も自律的に興奮しているのだけど、ここではおいておきます。興奮と言っているのは細胞膜内外の電位差の逆転で、この逆転状態が、あたかも導線に電流が流れるかのように神経線維に沿って伝搬します。細かいことを除くと、脳とか脊髄とかがやっているのは、電位の逆転状態を伝搬し続けてぐるぐる回しているだけです。膜内外の電位差はもちろん物理量です。電位差という物理量がぐるぐる神経系を巡ると、意識とか感情とかが生起する、つまり見えたり思ったりする…。これはいったいどういうことなんでしょうか。
もう一度確認しておきます。「物理的事象が心的事象となって現れる」、このことをどうにも説明できないことが「意識のハードプロブレム」です。
2.意志は身体の作動に必要か
今度はその逆、心的事象(特に意志)によって身体が作動するということは説明できるでしょうか。身体が動くには、筋肉を収縮させるための運動神経を興奮が伝わる必要があります。大脳の運動野から脊髄などを経由して運動神経へと興奮が伝わるので、結局のところ大脳皮質を意志が興奮させなければなりません。大脳皮質が興奮する(活動が活発になる)と心的事象が生起するのと同じくらい、いえそれ以上によくわからないです。
そしてそれどころか意志が身体を作動させる必然性さえ存在しません。脳科学者リベットによる有名な議論があります。ある実験結果から判断して、「身体が作動した後になって自分の意志で動かしたと思い込んでいるだけだ」というものです。実際にはリベットの実験は限定的で、リベットの考え方を肯定するほどのものではないのですが、理屈としてはリベットの言っていることは十分にあり得る話です。運動神経が興奮を伝達すれば身体は作動するわけで、神経系は自律的に興奮を伝達し続けているのだから、別に心的事象が身体を動かさなくても勝手に作動してよいです。類人猿の道具使用などを、意志による身体の作動なしでも説明することは可能です。まあその場合、尋常ではなく長い説明になってしまうのですが。
「意志が身体を動かす必然性は本当はないのだけど、言語とか知能行動とかとてもその前提なしで説明できないので、やっぱり意志が身体を動かしているのじゃないか」、脳科学なんかでもそれくらいの認識で話が構成されています。
3.オートポイエーシス論で説明可能か
では神経生理学的知見を元に生命論として考案されたオートポイエーシス論を用いれば、上記二つの難問は解けるでしょうか。結論を言うと、オートポイエーシス論でも説明できません。
しかしだからといってオートポイエーシス論による説明が意味がないわけではありません。心的事象は意識から認識、言語における意味のようにどんどん階層化させて考えることができます。身体とこれらの高階層化されて現れる心的事象の関係を、脳科学や心理学などの諸科学は説得力のある形で説明できていません。オートポイエーシス論を用いれば、身体と意識の関係をその用語で記述できたとき、同じ図式を繰り返すことで認識や言語を階層を登りながら説明することが可能となります。
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