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心身二元論を超えて

ヴァイツゼッカーは境界としての「主体」という、新しい概念を提示しました。彼の思想を読み解いていく前に、彼がそのように思索しなければならなかった背景を見てみましょう。

1.心身二元論

「主体」や「主観」について何か思索を巡らせるならば、身体と心的事象の関わり合いについて、自分の立場をはっきりさせる必要があります。「からだ」と「こころ」はどのように関係しているか、という問いは、心身相関の問題と呼ばれています。この問いは古代から繰り返し問われてきたのですが、ひとまず近代までの考え方は置いておいて、現在の脳科学などに広くみられる考え方を出発点としましょう。

現在の心身論の大勢は、心的機能を脳の各部位の機能に還元しようとする方向にあります。心的経験を脳というハード機構のソフト機能とみなしているともいえます。ここで身体に目を向けると、呼吸は肺というハード機構のソフト機能としたり、消化が胃というハード機構のソフト機能であるとすることに、特に問題は見られません。しかし「肺呼吸相関」や「胃消化相関」が、原理上格別に困難な問題を起こさないのとは異なって、心身相関は一貫して解決困難な問題であり続けています。その理由は、心的経験には物理的機構で説明できない残余が伴うので、脳というハード機構とそこから生まれる機能に還元しきれないためと考えられます。物理的機構によって、我々が何かを「感じている」ことがなぜ生じるのか誰も説明できず、このことは「意識のハードプロブレム」と呼ばれています(「心と身体の関係」参照)。

自然科学では、客観性を重視してできるだけ主観性を排除することになりますが、個人の意識体験から主観性を排除するという還元主義的手法が、意識のそもそものあり方と矛盾を起こしてしまっています。心的経験の主観性をそこなうことなく、そして従来の心身二元論を克服した心身相関の理解を目指さなくてはなりません。

2.主観と主体

木村敏によると、日本語の「主観」という語は、ドイツ語のズプイェクトSubjekt、英語のサブジェクトsubject、フランス語のシュジェsujetなどの訳語とのことです。もとになったギリシア語ヒポケイメノンhypokeimenonでは「基礎にあるもの」といった意味で、中世のスコラ哲学では「実体」の意味で用いられ、むしろ対象の側を指す言葉だったようです。カントが対象を認識する先天的形式等を考えたことから、認識の根本的原理といった意味で、主観の語が理解されるようになり、西周が「主観」と訳すことになりました。

ただヨーロッパの方では、人間の側の働きかけでどう世界を変えていくべきか、といった実践的行動が重要な問題となっていて、この行動主体にも「主観」とおなじSubjektという語が用いられています。こちらの意味を「主観」という言葉で表現するのは難しいので、日本語では後者の意味を「主体」という言葉で言い表すことになりました。日本語では二つの言葉に分かれましたが、「認識や行為を行う個人の側の統一原理」であることは共通しています。

3.間主観性

主観にまつわる問題の一つに他者認知の問題があります。目の前の人間の形をした物体を見たとき、その対象が本物の他人で自分と同じように「こころ」を持っているとどうしてわかるのか、という問題です。この問題は、西洋近代における理性主義が生み出してしまった問題と言ってよいでしょう。そのような近代に特徴的な考え方を、フッサールをもとに見てみることにします。フッサールは「まずその物体的身体の知覚がおこなわれ、それとわたし自身の身体や行動との類似性が認知され、その後にはじめて「自我移入」という特別な作用によってその物体に「もうひとつの自我」が投げ込まれて、主観的/主体的な他者の認知が完了する」(木村敏『からだ・こころ・生命』第1章3節)と考えたようです。しかし我々はもっと直感的に、そうであるとしか思えないように「他者」が「こころ」を持っていると感じているのではないでしょうか。

同じ現象学でも、メルロ=ポンティはもっと「私的」な意味での間主観性を問題にしました。痛みなどの感覚や喜びや悲しみの感情など、当人だけにしか感じられない私的な主観的体験が、親密な人どうしで共有されて感じられることがあります。しかしこの私的な間主観的経験は、親しい人との間でのみ生じるわけではありません。我々の一見個別的な主観的経験や主体的行動の背後にも、この私的間主観性がつねに働いていて、それがわたしたちの意識や行動の基盤となって方向性を与えている、と考えることができます。メルロ=ポンティはこの私的間主観性を、「間身体性」とも呼んでいます。

この「間身体性」を前提にすれば、身体のある種の同調可能性によって、その物体の客観的知覚に伴って、他者として感じ取られている、と簡単に述べることができます。フッサールの言ったような知的、認識論的な過程に基づいているのではなく、ある種本能的とでも言えるような、人間が動物種として持って生まれてくる性向が元になって、他者という感性体験があると思われます。

  • 参照文献:木村敏『からだ・こころ・生命』(講談社学術文庫)

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むつきさっち

物理と数学が苦手な工学博士。 機械翻訳で博士を取ったので一応人工知能研究者。研究過程で蒐集した知識をまとめていきます。紹介するのはたぶんほとんど文系分野。 でも物理と数学も入門を書く予定。いつの日か。

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