神の存在証明 - 趣味で学問

神の存在証明

中世哲学において有名な人にトマス・アクィナスがいます。トマスは13世紀の人で、この時期はイスラーム経由でアリストテレスが入ってきたころです。彼は大学で教授職につき、キリスト教思想とアリストテレスを中心にするギリシア哲学を統合して体系化を図った人です。トマスの思想は多岐にわたるのですが、このページではそのうちのごく一部、近代哲学へと連なっていく「神の存在証明」の議論のみ紹介したいと思います。

1.運動による神の存在証明

我々の認識は感覚にはじまりをもつので、感覚的なものを通じて知性で捉えられる対象を認識するのが自然と思えます。そうすると神の存在についても、経験に与えられることがらから論証が開始されるべきでしょう。トマスの記した神の存在証明の「五つの道」から、運動による証明と呼ばれる第一の証明を下に示します。

「一、世界のうちには運動するものが存在する。二、運動するものはすべて他のものによって運動する。三、運動させている他のものも運動しているとすれば、それもまた他のものによってそうしているけれども、この系列を無限に遡行することはできない。四、それゆえに、他のなにものによっても動かされない「第一動者」が存在する。「これを、すべてのひとは神と理解する」。」(熊野純彦『西洋哲学史』上巻、第14章)

生命は自律的に運動を開始するのでは?と思えますが、ひとまずそれは置いておくと、最初に動かされることなく動かすもの(神)が存在して、はじまりにあるものを動かすことから今へと連なっている、という考えだと解釈できます。

2.類比による神の認識

上では、運動という一般の人間の知性で身近に捉えられる現象から神の存在を考えました。しかし神の存在について考えるとき、神と世界は存在の在り方を異にしているはずです。神と世界の存在様態が隔絶している場合、人間が神の存在を考えること自体が不可能にも思えます。この事情に対し、トマスは、「類比」で神の存在を捉えることができると考えたようです。

「一、世界には偶然的なものが存在する。二、いっさいが偶然的なものであるなら、なにも存在することができない。したがって、三、偶然的なものを存在させる必然的なもの、四、それ自身によって必然的なもの、神が存在する。」(同上)

「二、いっさいが偶然的なものであるなら、なにも存在することができない。」と考えることが妥当なのかよくわからないのですが、これもひとまず置かせてもらいます。核心となるのは、偶然的世界が存在している以上、必然的な神もまた存在しなければならない、という考え方です。この考え方は、比の式を用いた未知項の決定と類比させて理解することができます。中学数学の比の問題において、a:b=c:dで三項がわかれば残り一項の値がわかるというものがあります。上の神の存在の考え方において、(a)世界の存在、(b)世界の本質(偶然性)、(c)神の存在、(d)神の本質(必然性)と置いてみると、(a)、(b)、(d)が明らかになれば、未知の項(c)、つまり神の存在を認識できる、ということです。この考え方が妥当かどうか私には判断できないのですが、我々と存在様態を異にするために認識できるはずのない神を認識するための、創意工夫により導かれた数少ない方法の一つであることは確かです。

  • 参照文献:熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店)

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むつきさっち

物理と数学が苦手な工学博士。 機械翻訳で博士を取ったので一応人工知能研究者。研究過程で蒐集した知識をまとめていきます。紹介するのはたぶんほとんど文系分野。 でも物理と数学も入門を書く予定。いつの日か。

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