熊野純彦『西洋哲学史 近代から現代へ』書評と要約 - 趣味で学問

熊野純彦『西洋哲学史 近代から現代へ』書評と要約

評価:

熊野純彦による「西洋哲学史」の下巻です。上巻の評価が4だったので、それに比べて上の評価3は低いです。その理由は、熊野自身による本の目的の一つ、「哲学者の思考の道筋をできるだけ論理的に跡付けること」が後半になるにしたがって、薄れていっていることです。仕方ないことだとは思います。

でも上巻が熊野のかかげた三つの目標を十分に達成しているのに比較してしまうと、やっぱり評価が下がってしまいます。それでもこれだけ広い範囲の哲学者の思想を、こんな薄い本であれだけテクストを引用しながら再構成した本は、他にないと思います。でも上巻の評価4と比較して、評価は3にします。

今回も上巻のときと同じ、各章ごとの要約を挙げることにします。

各章ごとの要約

第1章 自己の根底へ

デカルトから始まっています。デカルトと言えばコギトで、やはりこの本でもそれが中心です。「いっさいを偽であると考えようとするかぎりで、「そのように考えている私は、なにものか(quelque chose)でなければならない」。かくして、「私は考える、ゆえに私は存在する je pense, donc je suis」こそ、デカルトの探求していた「哲学の第一原理」である(『序説』第四部)。」

第2章 近代形而上学

デカルトに影響を与えた人としてスアレス、デカルトから影響を受けた人としてマールブランシュとスピノザが挙げられています。スアレスはイデア主義的な考え方をしていて、例えば「ないということ」ではなく「ない」という実体を想定しています。マールブランシュは、世界そのものが神の観念(イデア)としてあるのだから、人間においても、分有する観念によって世界を認識し得る、という感じの考え方をしています。

第3章 経験論の形成

イギリス経験論で有名なジョン・ロックの章です。ロックの議論にはデカルトとの連続性があります。デカルトにおいては、感覚で捉えられるものは香りや色やかたちで、知性で捉えられるものは延長や量です。感覚に対してはロックも同様に考えたようで、二人が異なるのは知性に対してです。抽象的な概念を可能にする知性をデカルトは先天的だといって、ロックは後天的(経験による)だと言っています。

第4章 モナド論の夢

ライプニッツの章が続きます。この本でもモナド論が中心です。「モナド」は差異そのものを内に含む個物で、差異の別の呼び名が襞でしょう。また、モナドはそれ自身が世界全体を凝縮して「表出」していると考えられています。難解なモナド論ですが、ライプニッツが果たせなかった融和の思想が入り込んできています。

第5章 知識への反逆

イギリス経験で続くのはバークリーです。バークリーはロックを批判するのですが、二人の使う言葉の定義が異なっていて、議論のすれ違いがあったようです。

第6章 経験論の臨界

イギリス経験論のヒュームが続きます。ロックとバークリーの言葉の定義に違いがあるので、ヒュームはもう一度知覚に関する言葉を定義しなおしてから、自分の議論を展開しています。人間の思考の形式で重要なものの一つに因果関係があって、ヒュームはやはり「経験」によると考えます。経験から因果の観念が成立するには、近接して時間に前後して現れる二つの事象の間に「必然的な結合」が見て取られる必要があります。その必然性をもたらすものが、「経験」や「こころの習慣」だとヒュームは考えています。

第7章 経験論の展開

ロックの影響を受けたとされる、フランスの思想家たちによる、言語の起源に対する考察が続きます。

第8章 理性の深淵へ

カントの章です。イギリス経験論とのつながりがあって、カントは経験を可能にする認識の形式が必要ではないかと考えています。カントは感性、悟性、構想力などの言葉を定義しています。そのうち悟性は、人に共通して現れる認識の形式のことで、感覚の多様を一つに統一するはたらきを持つと考えられています。

カントの理性や経験に対する議論と関連して、四つのアンチノミーや神学的な議論も出てきます。神を殺したと言われるカントですが、神の実在を証明できないといっただけで、神の存在を否定したわけではないです。「「世界原因」である神は「世界外部の存在者」であり、その現前が空間的なものではないことを主張している」。「空間と時間を「外的直観ならびに内的直観の形式」と考えることで、時空を超越した、神の存在の様式が保証されることになるだろう。」

第9章 自我のゆくえ

カントに続くのがマイモン、フィヒテ、シェリングです。カントは理性や知性が対象にできる領域の確定を目指し、その目的が完全に果たされたわけではないのだけど、彼らはカントの議論を直接引き継ぐのではなく、「自然の合目的性を見とおす悟性」、「神的な直感的悟性」とかまで対象を拡張しようとしました。彼らは人間の理性に絶対性を見ていました。

第10章 同一性と差異

ヘーゲルの章です。ヘーゲルの思考の元になったのは、生命にたいする洞察のようです。ヘーゲルは、差異による同一性、同一性と非同一性による同一性のような考え方をもとに多様な議論を展開しています。

第11章 批判知の起源

ヘーゲルの影響を受けた哲学者として、ヘーゲル左派、マルクス、ニーチェを挙げることができます。彼らには神学の否定といった共通点が見られます。マルクスにおいても貨幣という神の否定という側面があります。

第12章 理念的な次元

19世紀のドイツ哲学、フレーゲやブレンターノ、西南学派らについてです。フレーゲは論理学主義と呼ばれる、論理学により数学を基礎付けようとする立場を取りました。普段当たり前のように行っている、数を数えるという行為がどのような要件を必要とするか、そのような思索を展開しました。数の概念が成立するには対象と対象の概念の区別が必要で、フレーゲによる基数の定義は、一対一対応によって考えられています。

第13章 生命論の成立

ベルクソンの章です。ベルクソンは数学で頭角を現した人で、時間論や空間論が有名です。質の変容に対して思索を巡らせました。ベルクソンの記憶論には、現在のための器官である身体と、現在の適応のために呼び戻される記憶(表象)という二つの視点の交叉があるようです。

第14章 現象の地平へ

フッサールの章です。フッサールは数学出身で、彼の数に対する思考方法は、「数概念」について、ひとがその概念に到達するそのしかたを記述する、というもので、現象学につながっていったと思われます。フッサールは、その対象へと意識を向けるという主体的な作用によって認識を考えています。

第15章 語りえぬもの

最終章はハイデガー、ウィトゲンシュタイン、レヴィナスについてです。彼らの思想の背景が紹介されています。

追記

なんか所々で要約やまとめというより、ただの紹介になってますね。カントぐらいまでは知覚とかに関連する議論が続いています。ただ彼らが対象にしたのは主に理性や知性で、知覚や認識がどのように成立するかは、あまり関心にのぼってない感じです。最初に認識について深く洞察したのは、どうもフッサールのようです。しかしこの本ではあまり書かれていないです。さらにメルロ・ポンティにつながっていくはずの、最晩年のフッサールの思想についても書かれてないです。この辺が私の評価が低くなった理由の一つです。フッサールとかメルロ・ポンティとかに興味のある人は、木田元の『現象学』とか『現代の哲学』とかを読んだ方がいいんじゃないかと思います。

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感想(3件)

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むつきさっち

物理と数学が苦手な工学博士。 機械翻訳で博士を取ったので一応人工知能研究者。研究過程で蒐集した知識をまとめていきます。紹介するのはたぶんほとんど文系分野。 でも物理と数学も入門を書く予定。いつの日か。

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