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キリスト教神学へ

キリスト教の教義体系の整備に尽力した人たちは、今日では「教父」と呼ばれています。彼らはプラトンとアリストテレスの思想を、主に新プラトン主義を経由してキリスト教神学へと組み入れていきました。教父たちの中で最も有名なのがアウグスティヌスです。アウグスティヌスの半生は喪失と愛の物語であり、その後の神=真理への愛は、この喪失の体験から続いていっているのかもしれません。

1.懐疑論批判

真理である神を愛した点において、デカルトとアウグスティヌスは共通します。彼らの思考の類似は、デカルトの時代から指摘されていたそうです。両者が共に、全てを疑う懐疑論を経て、人間理性の実在とそれによる真理の直観へと至る道程をたどったことは、必然的な成り行きだったのかもしれません。

錯覚というのは日常的に起こるもので、感覚が欺かれうることを我々は知っています。世界は我々がそう思っているのとは別様であり得るのですが、感覚に欺かれているとしても、いまそのように感覚される世界は存在し、世界を感覚する私もまた存在するでしょう。

「「疑うなら、考えている」。私は生き、意志し、知り、想起し、思考し、判断する。「もしこの精神のはたらきが存在しないならば、なにものについてであれ、疑うことすらできないはずである」」(『三位一体論』第十巻第十章、熊野純彦『西洋哲学史』上巻P174)。

ということは、疑っているかぎり、たとえ世界が存在しないとしても私の精神のはたらきは存在しているはずです。デカルトのコギトと見分けがつかないほどよく似ています。

関連ページ:デカルト(21/8/18時点で未作成)

2.神という真理

「ひとつであること」をイデア的な「一」を想定することなく考えるとするなら、人間の判断によってひとつのものとしてみなされている、とすることもできます。デカルトと同様に理性が万能すぎるきらいはありますが、人間の認識作用の一つの帰結として、多であるものが一として立ち現れていると考えることができます。そして理性に判断の権能を見い出すと、そのまま理性から神への通路があるかのように、立ち現れてきます。人間理性が身体的な感覚に頼らず、みずから「永遠で不変なもの」を見いだすとき、理性は一なる神、神という真理へと到達する。人間理性と神の理性の同型性をみていたデカルトと類似の思考が、ここにも見ることができます。アウグスティヌスの思索は、デカルトだけでなく、フッサールやウィトゲンシュタイン達が再度思考を巡らせることになります。

3.アウグスティヌスの時間論

アウグスティヌスは時間論で有名です。

「未来も過去も存在せず、また三つの時間、つまり過去、現在、未来が存在するということもまた正しくない。おそらくはむしろ、三つの時間、つまり、過去についての現在、現在についての現在、未来についての現在が存在するというほうが正しいであろう。じっさい、これらのものは、こころのうちに三つのものとして存在し、こころ以外の、どこにも見いだされることがない。過去についての現在は記憶であり、現在についての現在とは直覚であって、未来についての現在とは予期なのである。」(『告白』第十一巻第二十章、熊野純彦『西洋哲学史』上巻182ページ)

人間が時間において直接感じることができるのは、広がりのない現在としてのみです。現在は広がりを持たない一瞬ですが、一方で時間は連続して流れているとも感じられます。直接感じられるのは現在だけであるのに、なぜか時間は過去から未来へと流れると感じます。上のアウグスティヌスの考えは重要な何かを含んでいるように思えるのですが、この議論はひとまずここまでにします。

最後に神における時間について書いておきます。アウグスティヌスの思考の帰結として、神においてはすべての時間、つまり永遠において、現在としてある、と考えることができます。してみると、人間が過去から未来へと時間が流れると感じるのは、有限な時間を生きるしかないことを受け入れるための、一つの技法なのかもしれません。

  • 参照文献:熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店)

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むつきさっち

物理と数学が苦手な工学博士。 機械翻訳で博士を取ったので一応人工知能研究者。研究過程で蒐集した知識をまとめていきます。紹介するのはたぶんほとんど文系分野。 でも物理と数学も入門を書く予定。いつの日か。

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