基体としての人間理性 - 近代 - 趣味で学問

基体としての人間理性

デカルトにおいて真に存在するのは人間理性なので、自然を量的な対象とみなす量的自然観と、身体と完全に区別される精神がなぜ身体と結びついて現れるのかという心身相関の問題が浮かびか上がってきます。これら二つの事項は密接に関連しているのですが、ここは見通しをよくするためにできるだけ個別にデカルトの思考の流れを追ってみることにします。

1.量的・感覚的諸性質の違いから心身相関へ

1.1 量的諸性質と感覚的諸性質

デカルトは我々の感じることのできる世界に感覚的諸性質と量的諸性質の二つの性質の違いをみています。彼は、感覚諸性質は肉体的感覚器官に与えられるものですが、量的諸性質は精神によって洞察されると考えます。彼にとって真に存在するのは肉体ではなく精神であるので、真に存在する自然は、肉体的感覚器官に与えられる質的自然ではなく、理性の働きで捉えられる量的諸性質であることになります。人間の純粋な精神が洞察しうる自然をもう少し具体的に示すと、「まったく空間的な拡がりに還元された物体と、その位置の変化としての運動だけ」ということです。

では感覚器官から得られる、たとえば光とか色、音、香、味、熱と寒、その他の感覚的諸性質はなぜ、真に自然に存在しないにもかかわらず我々に現れてくるのでしょうか。デカルトが例に挙げる蜜蠟を例にとってみます。蜜蝋を火に近づければ、甘みや香りは失せ、色やかたちも変わり、感覚でとらえられていた性質はすべて、変化していきます。しかし残っているものもあって、過程を通じて、「屈曲しやすく変化しやすい、延長するもの」という、物体としての性質が取り出せます。このように変化しない諸性質が定在している本質と考えられていて、デカルトにとっては、移ろい行く感覚的諸性質はあまり注意を払うべき対象ではなかったようです。

感覚的諸性質が現れることの一つの考え方は、我々の身体、特に知覚器と神経系の方が、量的な性質(色の違いなら電磁波の波長の違い)を感覚的諸性質へと変換してそのように現れてきている、と考えることで、これは現代の心理学や諸科学で一般的な考え方に繋がっています。この考え方の是非は、現代の複合的な知見をもとにして判断されるべきでしょう。

1.2 心身相関

デカルトは「思考するもの」である精神と、「延長するもの」である物体を結合不能にするまでの区別を設けます。一方、日常的な感覚として、我々の身体と精神は分かちがたく結びついている、と感じられます。そうすると思考する精神が物体である身体と完全に異なるにもかかわらず結合した形でしか現れてこないことが、理解しがたい難題として立ち上がってきます。デカルト自身は、人間の心身の「実体的結合」について疑いをもってはいなかったようです。そうすると実質、身体と精神を真に分かつことはできないと言っているようにも思えます。メルロ=ポンティがみなしたように、非常に深く考えた結果、矛盾せざるを得なかった、ということなのかもしれません。

2.デカルトの形而上学

2.1 数学的自然研究

デカルトの言うように真に存在する自然は量的諸性質で、延長や移動といった量的な性質は人間理性によって捉えられるなら、自然を数学的諸概念で量的に記述することは、必然的な結び付きを持つと言えるでしょう。

デカルトは人間理性を次のように考えます。人間の理性は、「神の理性のミニチュア」であり、人間理性が生得的に持つ諸観念は、世界創造の設計図ともいうべき神の諸観念の部分的な写しのようなものです。このことから人間理性に生得的な観念と、世界を貫く理性法則とは神を媒介にして対応し合っていると考えられるので、数学的諸観念のように経験とは無関係な生得観念が、自然的対象にも適用しうるのだ、と考えられています。

2.2 超越論的な人間理性

真に存在する自然が人間理性で捉えられる量的諸性質のみであるなら、存在者のすべては人間理性によって余すことなく理解されるでしょう。そのとき、この世界にいったい何が存在し何が存在しないかを決定するのは、人間理性であるということです。デカルトにおいてはあくまで神の理性を後ろ盾にしているのですが、「イデア」や「純粋形相」や「人格神」が占めていた形而上学的原理の座に、人間理性が座ることになります。人間理性で捉えられる諸性質のみが存在するので、存在するすべては人間理性で認識しうる、と言っているも同然なので、これは循環論法に陥ってしまっています。しかしこうした理性の循環論法の上に近代哲学の基本的構図が描かれることになります。

2.3 連続創造説

時間も空間も連続でありながら、無限に分割して考えることができます。このことをどう考えればよいのか、かなりの難問です。デカルトの考えた回答はなかなかに斜め上をいくもので、世界はその瞬間しか存在しない、世界が連続して現れるのは、神が連続して世界を創造し続けているからである、というものです。いくらなんでもと思えるかもしれませんが、つじつまは合っていて否定はできません。

デカルトは物理学史において、慣性の法則をはじめて原理として定立したことで特筆されるそうです。慣性の法則は、力が加えられなければ加速度はゼロである、ということをいっているので、現在においてもはじめに創造したときと同じ法則で全物質の量と運動を維持し続ける全能の神、そのような存在を前提にして考えられた法則なのかもしれません。

3. 自然科学と近代哲学へ

その後の近代哲学は二つの方向性に進んでいきます。一つは「客観的世界のもつ合理的構造をどこまでも明らかにしてゆこうとする方向」で、ニュートンを代表とする近代の数学的自然科学が引き受けます。もう一方は、「超越論的主観の主観性を問い究めようとする方向」で、これが狭義の近代哲学の仕事になります。

  • 参照文献1:熊野純彦『西洋哲学史 近代から現代へ』(岩波書店)
  • 参照文献2:木田元『反哲学史』(講談社学術文庫)

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むつきさっち

物理と数学が苦手な工学博士。 機械翻訳で博士を取ったので一応人工知能研究者。研究過程で蒐集した知識をまとめていきます。紹介するのはたぶんほとんど文系分野。 でも物理と数学も入門を書く予定。いつの日か。

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