同一性と差異 - 趣味で学問

同一性と差異

ヘーゲルには、近代形而上学の完成者という側面とは相容れない一面があるようです。一般的なヘーゲル像とは異なる側面を、熊野純彦の記述を引用させてもらって、ちょっとだけ紹介しようと思います。

1.ヘーゲルにおける同一性と差異

ヘーゲルはシェリングの友人だったのですが、同一性の考え方はかなり異なっていたようです。ヘーゲルは同一性を、一見矛盾とも思える差異との関係でとらえています。今、「海は海であり、空気は空気であり、月は月である」と語るとき、主張したいことは主語の同一性ではないです。むしろそれぞれの主語となっているもの、海と空気と月が異なっていることの表現です。この場合、同一性が差異によって主張されていることになります。

実はヘーゲルの思考の元になったのは、生命にたいする洞察ではないか、と考えられます。組織は同型の細胞の集まりですが、異なる組織の集まりが一つの器官となり、やはり異なる器官の集まりが一個体となります。生命は確かに、多数性による一、差異に支えられた同一性であるとも思えます。熊野による表現は次のようなものです。「生命体は生命そのものと「合一」し「関係」している。他方、生あるものは生命一般と「対立」している。個々の生命は、生命そのものから「分離」していることで、おのおの生あるものである。」(熊野純彦『西洋哲学史 下巻』第10章)

そしてヘーゲルの表現は「生は結合と非結合との結合である das Leben sei die Verbindung der Verbidung und der Nichtverbindung」。よく言われる通り、この文体の晦渋さが理解を妨げているでしょう。

ヘーゲルはこのように、同一性と非同一性による同一性のような考え方を基本にして、時間の概念なども下のように考えていったようです。

「「いま」はつぎつぎと流れ去る。「点あるいは限界一般」としてとらえられた時間的「現在」は、ひとつの、おなじものでありながら、他となってゆくことで時間をかたちづくる。(中略)。前者なら時間は流れず、後者の場合、時間の連続性がひび割れる。(中略)。ヘーゲルは「いま」がおなじであり、かつことなることこそが「いま」の自己関係であり、しかも「絶対的に差異的な関係 absolut differente Beziehung」であると考える」(同上)。

ちなみにドゥルーズはヘーゲルの概念形式に、差異の概念を概念の差異に縮減するあやまりをみとめたらしいですが、この指摘は的を得たものと感じられます。

2.理性の狡智

上記のようにヘーゲルの思考には生命に対する洞察が根底にあって、彼の思想には差異による同一性、同一性と非同一性による同一性のような考え方が、あらゆる場面に現れてきます。ヘーゲルにおいては他者が主題として現れてきており、愛、歴史、運命、国家のような概念を対象にする場合でも、自己という同一性をもたらす差異としての他者、のような概念が根底に流れているようです。

ヘーゲルの用いた有名な言葉に「理性の狡智 List der Vernunft」があります。狡智とは一般に、現場のただなかには立ちいらずに、その周りから自分の目的のみを実現する「媒介する活動」のことです。歴史の総体とは、理性の狡知があたかも個人の情熱を手段として利用して、織り上げられたもののように見えます。自己という同一性が差異としての他者によってもたらされるように、ありえたかもしれない異なる可能性が、一つのものとして歴史を有らしめているのかもしれません。決して見通すことのできない他者としての理性が、歴史の根底にあるように思われます。近代形而上学の完成者としてのヘーゲルとは、相容れることのできない他者のようなヘーゲルを、これらの思想から垣間見ることができます。

参照文献:熊野純彦『西洋哲学史 近代から現代へ』(岩波書店)

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むつきさっち

物理と数学が苦手な工学博士。 機械翻訳で博士を取ったので一応人工知能研究者。研究過程で蒐集した知識をまとめていきます。紹介するのはたぶんほとんど文系分野。 でも物理と数学も入門を書く予定。いつの日か。

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