ヴァイツゼッカーによる主体 - ゲシュタルト・クライス - 趣味で学問

ヴァイツゼッカーによる主体

メルロ=ポンティは人間の本能のような、周りと同調しようとする性向によってとらえられる感覚のありかたを、「私的間主観性」と呼びました。私的間主観性は、西洋哲学が陥りがちな独我論を避けて他者認知を説明可能としたのですが、個人で成立した主観性をもとに複数の主体の間で共有されるような主観性を考えた点で、やはり西洋哲学の枠組みの中にあります。それに対して異なる主観・主体概念の用法を提示したのが、二十世紀前半にドイツで活躍した神経科医・哲学者のヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼッカーです。

1.相即

生命は知覚と運動の両方を動員して、自分の周りにある世界(環世界)とのあいだに接触を保つことで、その生存を保持しています。ヴァイツゼッカーは、生命が環世界とのあいだで接触を保ち続けるはたらきを、「相即」と呼びます。環境と生命の双方ともに変化し続けているので、相即の維持は双方の間の接続をいったん切って新たに接続し直すという形で成されています。さらにヴァイツゼッカーはこの事態を「転機/危機」(クリーゼ)と呼んでいます。生命にとって環境は変わり続けており、それまで保たれていた環境との接触はそのままでは破綻してしまいます。生命にとって環境との接触状態の破綻は自身の存続の危機そのものであり、その危機を乗り越えるために、環世界との接続を切断するとともに接続し直すことで接触を保ち続けています。外部的な観点からは、生命自らのはたらきにより相即を成していると映るのですが、それによって生存を保っている当事者である有機体の側から見れば、相即が成されるその瞬間が「主体」と呼ばれるということではないか。ヴァイツゼッカーはそのように考えています。

ヴァイツゼッカーの考える主体は、個人内部にとどまらず世界との境界にまで広がっています。主体をこのような環境と有機体との間の相即としてみれば、人間の意識を前提に主体を考える必要はなく、主体を植物とか単細胞生物とかまで拡張して考えることができます。主体は生きていることと切り離して考えることはできず、働きとしての生命そのものであると言えるでしょう。

2.個体と集団の境界

ある一個体において、環境との境界をその物理的境界と単純にみなしてよいでしょうか。例えば知覚でいえば、身体表面の知覚器が物理的刺激を受容することが始まりだとしても、神経系による伝達と主観への現れ、そして身体の作動による応答によって相即が維持される以上、これら複雑な過程全体との間を成す環世界との境界を考える必要があります。さらに個体は細胞、組織、器官の集まりであるので、個体とその構成要素との間の境界さえも考慮に入れなければなりません。身体外部だけでなくその内部も環境として、個体による相即が維持されていることになります。さらに人間の場合は「心的装置」の全体、あるいは個人や共同体の歴史的経緯さえも、相即を保つべき環境として働いています。主体はその内部にとどまらず世界との境界まで広がっていて、相即という事態の有機体内部での現れであるのだから、主体の出立する境界は主体それ自身のことといえるでしょう。

ある生物個体群を考えてみると、群れ全体が環境との相即を保つことで成立しています。このとき「集団主体的」とでもいえるような統一性を持って、群れとして行動しているように見えます。一つの群れとして成立する集団的主体性においても個体と同様に、いえそれ以上に境界そのものとしての主体の存在をみることができます。外部環境や内部環境(各個体のこと)との接触の場である境界は、その群れそれ自身の存在によって区切られています。このように生命の世界では、「主体」とは生命それ自身とそうでないものとの境界あるいは区別そのものなのです。

3.歴史性:人間という主体

主体を人間に限らず、有機体にまで拡張したわけですが、このような主体の概念をもとに、もう一度人間の主体を振り返ってみましょう。生物一般では、その主体性は個別主体的な志向性と集団主体的な志向性の複合によって構成されているとみなすことができます。さらに人間においては、「歴史」という他の生物種には見られない特殊人間的な自己意識が存在します。

人間における表象作用は、過去と未来を現在の中に取り込み、一つの時間の流れとなって個人の「歴史」を形作っています。人間の自己意識は「一回性」、「唯一性」といった特徴を伴っていますが、それは共有不能な歴史によって裏付けられています。人間の場合では、歴史的個別性が圧倒的に重要な意味を持つので、生物一般に見られる二つの志向性は潜在的なレベルに留まり、意識に登ることはまれです。しかし身体的現実においては、他の生物と同様の主体性が、共通して根幹をなしているでしょう。心身相関の問題を理解するには、人間特殊的な相関のみならず、われわれの身体にも備わる主体性、つまり環境とのあいだで相即を成すはたらきとしての主体性に、目を向けなくてはなりません。

  • 参照文献:木村敏『からだ・こころ・生命』(講談社学術文庫)

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むつきさっち

物理と数学が苦手な工学博士。 機械翻訳で博士を取ったので一応人工知能研究者。研究過程で蒐集した知識をまとめていきます。紹介するのはたぶんほとんど文系分野。 でも物理と数学も入門を書く予定。いつの日か。

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