近代形而上学の完成 - 趣味で学問

近代形而上学の完成

シェリングやヘーゲルに代表される哲学が「ドイツ観念論」と呼ばれています。ドイツ観念論はかなり難解な思弁で織り上げられているのですが、このページでは古代ギリシア時代から続く形而上学の完成という視点で、ヘーゲルに焦点をあててまとめてみようと思います。

1.ヘーゲルの生涯

ヘーゲルに限った話ではないですが、思想家の生涯とその思想との間には、何かしらの関係性があったりします。ヘーゲルの生涯を簡単にまとめてみます。

ヘーゲルは1770年にシュトゥットガルトに生まれ、1788年秋にチュービンゲン大学に入学し、哲学と神学を学び、ヘルダーリンやシェリングと親交を結びます。最初フランス革命に熱狂しますが、その後幻滅することになります。ヘーゲルは大学卒業後、家庭教師をしながら勉強し、1800年にシェリングの推薦でイェナ大学に私講師の職を得ます。シェリングがイェナを離れてから伸びのびと活動しはじめ、1807年に主著の一つ『精神現象学』を発表します。革命軍を率いたナポレオンがイェナに入城してきたとき、ヘーゲルはちょうどこの本の最後の章を書き終え、筆をおいたばかりだったと伝えらているそうです。この本の序文でシェリング哲学に辛辣な批判をくわえシェリングと絶交することになります。18年にベルリン大学の哲学科正教授に招かれ、以後13年間自分の学派を形成し、学会に君臨しますが、31年11月にコレラであっけなく他界してしまいます。一方、シェリングはヘーゲルの死後、晩年にもう一度返り咲く機会に恵まれます。

2.主観と客観の同一的な意識

ドイツ観念論と呼ばれるカントの後継者たちの思想は、「自然の合目的性を見とおす悟性」、「神的な直感的悟性」といった、高度に抽象化された知性を探し求める方向に推移しました。そこで目指されたものの一つは、「主観と客観の同一的な意識」です。

カントにおいては、人間理性の支配が及ぶのはあくまで現象界、しかもその形式的側面に限られていました。しかし、たとえば悟性のカテゴリーがもっと多かったとしたら、物自体によって提供される材料は少なくてすむはずです。カントの12のカテゴリーをもっと弾力的に考えて、精神が成長するに応じて次々に新しいカテゴリーを発動させていく、というふうに考えると、無限のカテゴリーの増大の果てに、物自体のように根源的な接触不能性として精神の前に立ち現れるものは何もなくなるように思われます。このようなことは、個々の認識主観と自然界との関係においては考えにくいことなのですが、ドイツ観念論の展開の中で、悟性のカテゴリーが主観の活動一般のカテゴリーとして考えられるようになります。そして世界の方も単なる自然的世界ではなく歴史的世界としてとらえられるようになります。

3.労働の弁証法

ヘーゲルのいわゆる「弁証法」(Dialektik ディアレクティーク)を先に説明しておきます。対立関係にある二つの対象において、その対立そのものを包括して統一し、その繰り返しによってより一全体的統一へと生成していく、その運動の論理がヘーゲルの弁証法です。このことがなぜ弁証法と呼ばれるかというと、人間の知的な討論でより包括的な考え方により問題が解決される、そのような考え方が基盤としてあるためです。最初二人の間で意見が対立していたとしても、議論を交わすうちに対立をもたらしていた根本原因に気づき、対立をもたらさないより包括的かつ統合的な考え方が導き出されるでしょう。最初は至る所で対立関係があるとしても、次々に対立関係が統合されて、その統合された考え方もまたさらに統合されて、より体系化された思想へと昇華していくと期待できます。

ヘーゲルによると、精神の本質は可能的な自己意識を現実化していくこと、精神が精神になるその生成の運動にほかなりません。彼は精神の生成運動は労働を通じて達成されると考えています。たとえば森を切り拓き、農場を作成するとき、我々は労働による自然への働きで対象を変化させ、また同時にそこへの働きかけによって主体の方も成長していきます。成長した主体にとらえられる自然はまたその姿が異なって現れるでしょうから、労働による働きかけは一回で終わるわけではなく、連続して行われる労働のたびに、精神は真の精神へと近づいていくでしょう。

このように弁証法的な働きかけが進むと、もはや外界に異他的な力として精神に対立するものもなくなり、精神が見ることのできないものがまったくなくなるという状態が到来するはずです。このとき、精神は絶対の自由を獲得していわば「絶対精神」となり、歴史が完結することになります。ヘーゲルは、彼自身がまさにそうした歴史の最終段階に立ち合い、彼自身の哲学こそが絶対精神の体現の場だと考えました。ヘーゲルがそう考えたのには当時の時代背景もあって、フランス革命とその反動、そしてナポレオンの登場という時代の流れを、人間精神が真の精神へと生成する歴史の終幕を意味しているのだと考えられたためです。

4.近代形而上学の完成

カントに続くヘーゲル哲学によって、人間理性は社会の合理的形成の能力を約束されたことになり、世界に対する超越論的主観としての位置を保証されたことになります。ヘーゲルは「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」というテーゼを掲げていて、これは世界に対する絶え間ない弁証法的労働の結果、現実に実在するものは合理的なものだけになっているので、現実の全ては隈なく理性によって認識できる、ということです。現代を生きる我々の目には、いまだ制御どころか解明さえできない生命の世界が広がっているのですが、当時の時代背景では、近代形而上学の完成を宣言するものであったことでしょう。

  • 参照文献1:木田元『反哲学史』(講談社学術文庫) 書評と要約
  • 参照文献2:熊野純彦『西洋哲学史 近代から現代へ』(岩波書店)

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むつきさっち

物理と数学が苦手な工学博士。 機械翻訳で博士を取ったので一応人工知能研究者。研究過程で蒐集した知識をまとめていきます。紹介するのはたぶんほとんど文系分野。 でも物理と数学も入門を書く予定。いつの日か。

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