デカルトのコギト
デカルトで最も有名なのは「我思う、ゆえに我あり」(コギト・エルゴ・スム Cogito ergo sum)でしょう。 この台詞を知っててその意味を知らない人もたくさんいると思います。この文はそれほど難しいことを言っているわけではないのですが、この一文にたどり着く経緯を知らないと誤解されそうな表現でもあります。この台詞の意味とそこまでの思考の経緯を簡単にまとめてみます。
1.「我思う、ゆえに我あり」
「我思う、ゆえに我あり」。
これだけだとよくわからない言葉ですが、そこまでの経緯をたどればデカルトの言いたかったことがわかってきます。簡単にまとめると下のようになります。
世界で最も明晰な学問は数学だと言われている。ところで数学の明証性が、公理と推論規則による演繹によって保障されているのであれば、演繹を可能とする公理も演繹によって導き出されるのでなければならない。公理を演繹によって証明するためには、その公理を証明するための公理が必要となり、さらにその公理の公理の公理が必要になり、以下永遠に終わらない。
結局、経験的に「まあ、誰にとってもそれは正しいと思えるだろう」というものを公理とおいているので、実際には数学の明証性自体があやしい。明証性を与えると言われる数学でさえそうであるならば、最も明証と思われる世界の実在さえ、本当はあやしいのではないか。
そこで世界の実在を疑ってみる。
私の感じているものはすべて幻や夢のようなものかもしれないし、私は今、悪魔に欺かれているのかもしれない。私が今まで感じてきたすべてのものが虚構でありうるのだから、私が感じている世界なるものの実在を証明することなどできはしない。世界の実在さえあやしい、しかしそれでいてひとつだけ確かに存在するものがある。
今私は世界の実在を疑っている。確かに私の感覚は欺かれ得るが、欺かれたとしても私がそう感じているという事実は存在する。もし疑い、考え、感じている私の精神といったものが存在しないのであれば、この疑い、考え、感じるという作用の実在をどのように説明できるであろうか。
確かに世界の実在さえ疑いうる。しかし、私が今、そう疑い考えている限りにおいて、確かに私の意志、理性、精神は実在する。
よって 、「我思う、ゆえに我あり」。
少し強引にまとめすぎた気はするのですが、デカルトのコギトをまとめると、おおむね上のようになります。要するに、疑い得ないと思っていた世界の実在とかも本当は怪しいけども、それを怪しんでいる限り、怪しむという働きである私の心は実在しているでしょう、ということです。
「私は思っているのだから私は存在する」と突然言われても何を言っているかよくわからないですが、「私が世界の実在を疑っている限り、考えるという働き自体は生じてるよね」と言われれば、たしかにそれはそうです。一見当たり前のことを言っているようにみえますが、ここには重要な前提があって、現代の自然科学へとつながる重要な契機が含まれています。
2.量的自然観と心身相関へ
デカルトは物体の本性を延長する実体とみなしています。物体の色とか臭いとかの感覚的諸性質ではなく、その長さなど量的諸性質が人間理性によって真に捉えられるものだと考えられているからです。物体について真に存在するものが量的諸性質であるならば、数学的な操作と自然研究とを結びつけて考える必然性を見いだすことができます。また真に存在するのは精神であるので、身体とそこから区別された純粋な精神の関係が新たな謎として浮かび上がってきます。その後の社会の在り方を大きく左右する自然科学の基盤を準備し、現代においても最大の難問であり続ける心身相関の問題が、すでにデカルトの思索の中に含まれています。
デカルトが自分の理性の実在を確信できたのは、神の理性の実在を確信していたからです。彼にとって人間の理性とは「神の理性のミニチュア」のようなものであり、神の理性を後ろ盾とした人間理性への信頼が、この時代の重要な特徴とみなすことができます。
参照文献1:熊野純彦『西洋哲学史 近代から現代へ』(岩波書店) 参照文献2:木田元『反哲学史』(講談社学術文庫)
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