環境と接することとしてあるこころ
動物は「ブルート・ファクツ(ありのままの運動)」と呼ばれるオリジナルな運動を持っています。生得的ともいえるそのような運動が環境との接触により変化し、我々の目には、環境適応的な運動として見えています。環境適応的といっても、単純に外部刺激を受動的に受容することで行動が起こっているわけではありません。自身の利用する情報を自身の動きで作り出し、身体全体が一体となった知覚システムで受容することで、動物の行為は始まっていきます。
20世紀の感覚心理学は「外」受容感覚と「自己」受容感覚に二分して考えていました。また視覚に特権を与え、身体の動きを監視し制御する、人間の知能の座をそこに見いだしていました。このような伝統的な心理学における思考方法が上のような事態に対し妥当であるか、考え直す必要があります。
1.身体という統合的なシステム
1.1 ジャグラーによる玉への接触
ジャグラーを例に見てみます。ジャグリングでは使用する手より多くの玉を上空に投げ上げ、受け取り、また投げ上げる動きを続けます。投げ上げは正確な位置に落下させることと共にあり、完全な分離も統合も成されないこの二つの微妙な知覚的調整が、この技を成させています。ジャグリングの分析結果から、玉の動きのばらつきは手の動きのばらつきより小さいことがわかります。
ジャグラーがジャグリングに利用するものは、まずは眼です。優れたジャグラーは、特殊なゴーグルで玉の頂点の見えを15ミリ秒に制限しても5個の玉でジャグリングが可能であることが実験から示されています。また玉を見なくてもジャグリング可能なことも知られています。訓練を積んだジャグラーは光も手の接触も、双方を利用して玉のサイクルに「多重に接触している」といえます。おそらくいくつものシステムを統合させながら働かせているはずです。
1.2 身体全体での応答
ジャグラーは知覚システムの複数化を時間をかけて達成しています。このことを系統発生に広げて考えてみます。まず確認すべきことは、複雑な環境があって、それに対して知覚器官の複雑化が起こっていることです。進化でも個体発生でも、システムの複数化、多重化により得られる情報は冗長になっています。
ここでは「炎」が知覚されるということを例にとります。炎は光、音、匂い、熱などが関係し合って独自の現れを提示する出来事であり、炎の本質というべきはこの複雑な関係の仕方とみなせます。この複雑さを扱う方法の一つに、ある器官ともう一つの器官の情報の関係の複雑さによって捉えることがあります。「平衡胞」は体の傾斜の知覚器官ですが、地面の接触面からの情報により、平衡胞内部にかかる力と地面からの垂直抗力の方向のずれから、地面の傾きという環境の不変な性質を知ることができます。
関連ページ:動物が自ら作り出す意味
一つの知覚の器官にもう一つの器官が加わったとき、生じるのは単純な多重化のみではなく、二つのシステムの関係は組み換えられて、もとのシステムも変化していると考えられます。新しい知覚システムの発生のときには、システム間の関係の本質的な変化が起こっているはずです。我々の現在の眼や耳や皮膚のあり方も、他のシステムとのかかわりの中で、その働きも構造も変更されてきたのだといえます。「このように知覚の器官が相互に関係をもち、共変し複雑な情報を獲得できるようになるにつれ、動物の知覚できることの複雑さは環境にある複雑さに徐々に近づく。」(佐々木正人『アフォーダンス入門』、第六章)。
2.歩行のプールからの歩きのパターンの現れ
次は赤ちゃんの歩行パターンを見てみます。産まれたばかりの赤ちゃんは、「反射歩行」とよばれる両脚の動きを示します。いったんこの反射歩行が消えることから、運動生理学的には、反射歩行は「本能的な行動をつかさどる脳の下位にある運動中枢に蓄えられている歩行パターンのあらわれ」(佐々木正人『アフォーダンス入門』、第六章)で、それが見られなくなったのは「脳の上位の運動中枢による下位の中枢の反射機構の抑制」(同上)の結果であると説明されてきました。しかしプールの中でさせてみると依然反射歩行を行っており、実際のところは成長で体が重くなって重力の影響で起こらなくなっていただけです。いろいろな実験を行ってみると、赤ちゃんは「反射歩行」「蹴り」「トレッドミル歩行」「独立歩行」という四種の歩行を同時期に行っていて、異なる発達過程を持つこれら4つの「歩行のプール」から、実際の歩きのパターンがあらわれてくることがわかります。
3.多数の動きの集合として環境に出会う
手でカップをつかむとき、手を伸ばしてつかむまで、微小な手の動きが多様に見られます。これは「アー」とか「エー」とかの言い淀みのようなものです。微小行為のあらわれには種々の条件が影響し、たくさんの物が乱雑に置かれたようなところでは多くなります。一方で、シンプルな状態を設定しても、練習を行ったとしてもなくなることはありません。
インスタントコーヒーをカップに入れる場合を観察してみます。動作を見てみると、最短の手順でコーヒーを入れる人はあまりいません。カップにコーヒーの粉を入れるとカップの見え方が変わり、その見えが変化するように、お湯を入れたり先にミルクや砂糖を入れたりして、自分の行為で変わっていく環境を見ながら新たな行為を連結して、最後の見えにまでたどりつくことになります。さらにこのときの一つ一つの行為は、「砂糖の容器を持ってくる」、「スプーンを持つ」のような微小な行為にわけることができます。微小行為は、つぎに「お湯をそそぐ」とか、「コーヒーを入れる」とか、行為の区切れ目で多くなります。行為が変えた環境の見えが、次の行為を導くことから現れていると考えられます。行為の区切れ目では次に現れ得る行為は多様であり、その環境が可能にしてくれる身体動作が探られることにより、多様に可能な行為の中からその行為が選択されるのでしょう。
4.人間の行為に潜在するもの
以上のように人間の行為においても、「ブルート・ファクツ」が環境との接触により成人の動作へと変化していくこと、日常的でありかつ知的な動作においても多様に可能な動作の中からその都度選択され続けて行為が成立することが示されています。人間の知的な行為でも、環境と一体化した行為の選択がそれを可能とすることにおいて、動物となんら変わりはありません。もちろん人間の知性的行動が動物の行動とまったく同じではないのですが、知性的行為の成立を、動物行動からのよりいっそうの統合として考える必要があるのではないでしょうか。
5.多数との関係においてあるこころ
佐々木正人『アフォーダンス入門』の最後の段落に、次の一文があります。「ぼくらがこころとよんでいることの本当の姿は、この進行する多数との関係に起こりつつあることなのである」。この一文は間違いなく佐々木による『アフォーダンス入門』の総まとめです。伝統的な心理学における、行為と切り離されたこころでも、外受容感覚と内受容感覚に二分された知覚でもなく、身体全体とともにあるこころのありようを表現したものです。
この一文は、木村敏によるゲシュタルト・クライス解釈と同じ地平に立った解釈だとみなせるでしょう。木村がゲシュタルト・クライスの概念に見た「主体」とは、生命が環世界との接続を切断するとともに接続し直すことで接触を保ち続ける、その瞬間のことでした。心身二元論を超えるこころと身体の理論を追い求めた結果、異なる分野の二人の思想家が、同じ終着地点を見つけ出したということではないでしょうか。
関連ページ:ヴァイツゼッカーによる主体
- 参照文献1:佐々木正人『アフォーダンス入門 知性はどこに生まれるか』(講談社学術文庫) 書評と要約
- 参照文献2:木村敏『からだ・こころ・生命』(講談社学術文庫)
<< 動物が自ら作り出す意味 子供の言葉と周りにある「意味」 >>