中沢新一『熊から王へ カイエ・ソバージュⅡ』書評と要約
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目次
1.評価
評価:
カイエ・ソバージュシリーズの二冊目です。一冊目に比べて前半の密度がうすく感じて評価は若干辛めの3にしました。一冊通して通底する考え方はあると思いますが、それを見つけ出すのがけっこう大変な感じです。講義録なのでそこらへんは仕方ないでしょう。読みやすさと引き換えの感じはします。
具体的に神話の語り口を載せてくれているし、そこから「対称性の思考」をどう取り出すかを例示してくれています。辛めの評価を与えておいてなんですが、神話の奥底に眠る思想を探り、語りによって形を与える具体的な手つきを垣間見せてくれる、読むに値する一冊ではあると思います。
2.章ごとの要約
下に章ごとの要約を載せておきます。ただ、元の文体のまままとめることができなくて、自分の表現に直しながらの要約になっているのでご注意ください。
カイエ・ソバージュⅠの書評と同様、図表は全て省略しました。また今回は神話を要約に含めることができませんでした。本の性質から、図表と神話の語り口は重要なものなので、それらは著書を手に取って、どのようなものか確認してみてください。
序章 ニューヨークからベーリング海峡へ
神話を持つ社会では、人間は「文化」を持ち、動物は「自然」状態を生きていると考えられていました。その世界では自然に対する野蛮さなどなかったのですが、現在は動植物に対する「野蛮」そのものが社会に組み込まれています。2001年のニューヨークで起こったテロはもちろん野蛮な行為ですが、それを引き付けたのは非対称を押し付ける、現代社会による野蛮なのです。
第一章 失われた対称性を求めて
トンプソン・インディアンの山羊の狩りには様々な掟があって、掟の起源としてある「神話」が語られています。若い狩人が女に誘われついていくと、そこは山羊の住む洞窟であり、女に渡された毛皮を被ると雄山羊へと変わってたくさんの雌山羊と番います。彼が家に帰るとき、その女は次のように言います。
あなたはもう立派な狩人です。あなたは山羊たちが人であるこを知っているので、死体を扱うのに敬意を払わなければならない。雌山羊はあなたの妻であり子山羊はあなたの子どもであるので狩ってはいけない、雄山羊だけ狩りなさい、彼らは肉と毛皮をとられても本当に死ぬのではなく、家に帰ってくるだけなのです。
この神話は彼らの「エコロジー科学」を反映しており、ここには「結婚とは、自分とは異質な生き方をしている人々のことを理解し、共感をもって愛する貴重な機会をあたえてくれるものだ」(p.44-45)という彼らの哲学が語られています。
第二章 原初、神は熊であった
現生人類種の前、ネアンデルタール人やクロマニョン人においても、熊に対する儀式が行われていたと推測されています。狩猟採集民において、熊は森に住む動物たちの首長と考えられていました。その首長である熊を丁重に葬ることで、熊の霊を通して、他の動物たちとの関係も良好になるでしょう。
熊と結婚し、家に戻った少女が、熊の毛皮をかぶせられた途端に熊へと変わり、兄弟たちを殺し子熊を連れて森に返っていく神話があります。こういうことがあって熊は半分人間になり、人々はグリズリー熊の肉を食べなくなった、と伝えられています。現生人類は流動性知性によって、人間が熊になり、熊が人間になる、このような「人間的な心」を持つことになりました。
第三章 「対称性の人類学」入門
最初の現生人類たちは詩や音楽で語り合っていたというルソーの考え方は、あながち噓とも言えません。神話の思考も詩と同じように「比喩」の能力を活用していることが昔から知られています。
実際の狩猟において見えるのは熊を殺している光景です。しかしそのことの意味を、神話のある世界の人々は、人間と熊がお互いにその存在を行き来し、友人として贈り物を送り合う関係として描き出します。贈与を送り合う関係といっても、実際には人間の側の都合で狩りが行われるので不均衡が生じます。神話の論理と現実との乖離をその世界の人々は認識していて、神話にもそれが表現されています。「狩りとはかつて、威儀を正した一種の決闘だったのです。それは、ことばの原初が詩であり、交換のはじまりが贈与であったのと同じように、あらゆる戦いは純粋な状態では、決闘に浄められていくからです。」(p.97)
第四章 海岸の決闘
神話におけるシャチの扱いは熊とは異なるようです。シャチの神話では、シャチが剣を持って獣をもてあそんだり、シャチから手に入れた剣で熊を切りつけて殺したりといった、狩猟世界の倫理から外れた行動が語られます。ウリチの神話で語られる剣は、どうやら日本刀のようで、技術によって壊されてしまった自然との対称性について語られています。人と魚との間に生まれた子に、剣によって傷つけられた熊は自爆的な決闘により、その子と相打ちになることで対称性を回復しようとしています。ここでは一つの「技術論」が語られています。
第五章 王にならなかった首長
シャーマンとは熊となって自然界の力を手に入れた人間のことです。シャーマンは社会の周縁部にいて権力の中枢には近づけないようになっていました。社会の中心、自然に対する文化の中心に位置したのは首長でした。首長は交渉と調停の人であり、気前良さを持ち、弁舌さわやかで歌と踊りを得意とする人がなることができました。平和時に力を持つのは首長ですが、戦時では戦士たちの長である将軍が権力を握りました。彼らの文化では対称性を守るため、首長は将軍としての力を手に入れて「王」となることは決して許されませんでした。
第六章 環太平洋の神話学へ Ⅰ
環太平洋には、移住した人々によって、深いつながりを持った文化が保たれていました。彼らの社会はすでに階層化されて国家の手前まで来ていたのですが、ついに国が作られることはありませんでした。対称性社会の思想を大事にする人々は、様々な方策を用いて、クニが生まれるのをその目前で防いでいました。
第七章 環太平洋の神話学へ Ⅱ
折口信夫は「ふゆ」(冬)をタマ=霊魂が「ふえる」期間だと考えました。彼のタマ論は、寒い時期に行われる日本の祭りと、ボアズによるアメリカ大陸北西海岸インディアンの祭りの記録をもとにしています。
その地方のインディアンは夏と冬で大きく生活形態が変わります。夏の間は冬の準備のための漁労や狩猟、採集の共同生活を送っています。しかし冬になると社会構造が解体され、それぞれの秘密結社にわかれお祭りが行われることになります。
結社の中でもっとも格が高いとされるのがアザラシ結社で、この結社では一人前の結社員になるには人食いである「ハマツァ」になることだとされています。結社員は人食いの親玉「バフバクアラヌフスィウェ」に食べられることで人食いとなると考えられているのです。夏の間は人間が動物を殺して食べる季節で、冬は人間が自然の精霊に食べられる季節であり、ここには対称性社会の倫理が表現されています。
夏の世俗的な季節のリーダーは「首長」であり、冬では秘密結社のリーダーです。また戦士のリーダーとシャーマンもいます。このうち秘密結社、戦士のリーダーとシャーマンは自然の中に隠された力を引き出し身につけた存在です。彼らの社会では首長とその他のリーダーが泰然と分けられていて、一緒になった一つの存在、つまり王となることがないように細心の注意が払われていました。
第八章 「人食い」としての王
階層化の臨界点に達していた彼らの社会のどこかで、自然のものである権力を個人に取り込んだ、王が生まれました。人食いに食べられた人間は個体性を失って人食いになって生まれてきますが、祭りの季節が終わるともとの文化的な生活に戻っていきます。しかし王に取り込まれた人間はクニの民となり、クニの社会の外に出ていくことはできなくなります。
スサノオの神話は王の誕生の複雑なプロセスを、実に明快に表現しています。もともと荒くれものだったスサノオは、人食いである大蛇を倒し、首長の娘と大蛇の体内から現れた剣を手に入れ、王となるのです。
人間に生まれた流動性知性は、対称性の倫理を発達させたのですが、同時にそれを突き破ってしまう力も秘めています。「文化」と「自然」のハイブリットが「文明」であり、そこから「野蛮」が生まれました。「野蛮を生んだのは、文明なのです。国家が野蛮を撲滅することは、不可能です。それは、野蛮の発生を土台にして、国家はつくられているからです。」(p.202)
終章 「野生の思考」としての仏教
国家の権力に対抗するため、新しいタイプの「知恵の教え」を説く人たちが現れました。その教えの一つである仏教は、サーキャ族の王子ゴータマ・シッダールタによって唱えられました。この小さなクニは共和制に近い国家であったとされています。
仏教の基本となるのは仏(ブッダ)・法(ダルマ)・僧(サンガ)です。ブッダは「王者」ではなく、知恵によって人々を導く「勝者」であるといわれています。ブッダは「自然」のもつ無化する力を、「空」として概念化しています。国家の権力もこの空の力によって無に帰し、自然へと還ります。また、僧(サンガ)の共同体により、国家の中に「国家に抗する社会」が組み込まれることになります。
空は人食いであると共に慈悲深い贈与者でもあります。これを聞いてすぐに思い浮かぶのは熊にほかなりません。
補論 熊の主題をめぐる変奏曲
狩猟採集民の移住に伴い、熊神話はその地方の動植物に合わせて変形されていきました。熊のいない地域ではジャガーや蝶がその代わりを務め、熊神話と類似の神話が語られていきます。レヴィ=ストロースは『神話論理』において、変形されながらも変わることのない構造を見出しています。
日本においても、岩手県気仙地方に「鮭の大助」の言い伝えが残っています。鮭の大助に助けられた人が、自分の住む世界の危機に直面したときに、今度は自分が鮭の大助となって自己犠牲の精神を発揮することによって、その世界を救おうとしました。
熊を主題とする神話的思考のさまざまな変奏曲は、「一万年以上もの時間を隔てながら、人間と自然の奥深いつながりを歌いあげるその調べを、私たちのもとへ届けてくれているのです。」(p.244)
3.全体まとめ
ざっと上の要約をもとに本の内容をまとめると次の感じです。
神話のある世界では権力は自然の中にあるものです。熊が象徴としてその権力を体現していて、人食いでありながら恵みを与えてくれる慈悲深いものです。「理性」の領域のリーダーは首長で、自然の権能を取り込んだもう一方のリーダーが戦士、秘密結社のリーダー、シャーマンです。対称性の社会では、これらの二つの種類のリーダーが一つになることがないような仕組みがありました。しかしすでに階層性が十分に形成されていた彼らの社会のどこかで、首長が権力を取り込んで王となりクニが生まれます。「人食い」に食われた人間は「人食い」になって、冬の終わりとともに文化の領域に人として戻ってきます。しかし王という人食いに食われた人間は、国民となってそこから逃れることはかないません。そのうち国家の権力に対抗するため、新しいタイプの「知恵の教え」を説く人たちが現れ、仏教もそんな知恵の一つです。ブッダの説く「空」は人食いであると共に慈悲深い贈与者でもあります。「空」とは「熊」にほかなりません。
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