本能行動と欲求行動(オートポイエーシス論)

動物行動学の詳細は「動物行動学入門」ページ(22/06/23時点で未作成)にまかせるとして、動物行動学において重要な区分である「本能行動」と「欲求行動」についてオートポイエーシス論で記述できるか、検討することにします。

まず本能行動と欲求行動は次のように説明できます。

  1. 本能行動:経験による適応的修正を蒙らない、種内に共通して現れる定型的行動パターン
  2. 欲求行動:経験による修正を余儀なくされる行動様式

上の定義からは学習や洞察的行動も欲求行動に含まれることになります。また本能行動は神経系が発達していない動物でも成立するのですが、ここでは脊椎動物の場合で考えることにします。

本能行動と欲求行動をオートポイエーシス論で記述するために、次のことを前提とさせてもらいます。

  • 本能行動とともに意識・認識(ゲシュタルト知覚)が生起する。
  • 生起したゲシュタルト知覚は動物行動に浸透する。

知覚像や認識像が比較的低次の神経系を持つ脊椎動物(魚類など)でも成立するか、また成立したとしてそれが動物行動に浸透するかどうかは、根源的に明らかにすることができません。一応は動物行動を神経生理学的概念のみで記述可能ではあるのですが、極めて煩雑な記述になり洞察的行動まで含めるととても記述しきれません。そのため上記のように、脊椎動物では「身体の作動とともに意識・認識(ゲシュタルト知覚)が生起し、それによって行動が変化し得る」とします。

1.縮減と新生による本能行動と欲求行動の説明

このサイトではルーマンの縮減概念を、「産出プロセスのプールの中で、環境や構造による攪乱によって、その瞬間のプロセスが決定されること」と定義しました。大澤真幸はルーマンの縮減概念に関し、システム内部の複雑性は環境の複雑性より少なくなっていて、その複雑性の縮減の度合いが大きいほど、社会システムは進化していると考えています。さらに、システム自身が複雑で多様な経路を持つことで、外部の変化に対応した応答が可能になるとされています。

これと類似の思考を、ローレンツの欲求行動の概念の中に見ることができます。彼の考えでは、高等哺乳類の知的作業は本能(もしくは行動を方向づける欲動)の貧困化ではなく、むしろ比較的独立な個別本能が豊かであることが、生存に不可避な課題の実現以上の多くのものを経験させ探求を可能としています。以上、大澤とローレンツの考えから、より多様となった本能プールの中で、周りからの攪乱によってその個体ごとの定型化された行動が現われ、それが可変的適応性をもつ「学習」として我々の目に映っている、そのように考えられそうです。

そうすると本能行動と欲求行動の間に、ローレンツの考えるほどには厳密な差異は存在しないということになるでしょう。実はローレンツ自身も本能行動を成す個別の運動成分に可変性を認めていて、生得的なのは行動が連結されて体制化されるそのパターンにおいてです。ここにはなお考慮に入れないといけない事項のかかわり合いがあるのですが、ひとまず環境との相互浸透による運動成分連鎖の縮減と新生を、それぞれ本能行動と欲求行動として考えることができそうです。多数の本能行動は、身体(神経系を含む)という種に固定された環境によりそれ自身が種固定的となり、身体外部の環境との相互浸透により、そのときどきの個別の本能行動として現れます。欲求行動における可変性は、多様化した本能行動プールのうちで、身体と身体外部双方の環境との相互浸透により、本能行動成分の間に新たな連環が成立することで現れてきます(注:ローレンツの考えとは相違がある)。

関連ページ:ルーマンの縮減概念

2.本能行動と欲求行動の図式化

これまでに動物行動、ゲシュタルト知覚、縮減についてオートポイエーシス論による模式図化を試みました。いずれも図式化の模索中であり、確信の持てるモデル図はまだ得られていません。本能行動と欲求行動の模式図化はこれらの図を用いて行う必要があるので、両模式図とも便宜的なものにとどまらざるを得ません。

動物行動と縮減概念の模式図をもとにすると、本能行動と欲求行動を図1のように描くことができます。

次に、ゲシュタルト知覚の模式図をもとに本能行動と欲求行動を図示すると図2のように描けます。本能行動において生じるゲシュタルト知覚と欲求行動において生じるゲシュタルト知覚の間に、特別の性質の違いはないと前提した図になっています。

関連ページ:動物行動(オートポイエーシス論)オートポイエーシス論によるゲシュタルト知覚ルーマンの縮減概念

<< ルーマンの縮減概念

ホーム

同一性と差異

ヘーゲルには、近代形而上学の完成者という側面とは相容れない一面があるようです。一般的なヘーゲル像とは異なる側面を、熊野純彦の記述を引用させてもらって、ちょっとだけ紹介しようと思います。

1.ヘーゲルにおける同一性と差異

ヘーゲルはシェリングの友人だったのですが、同一性の考え方はかなり異なっていたようです。ヘーゲルは同一性を、一見矛盾とも思える差異との関係でとらえています。今、「海は海であり、空気は空気であり、月は月である」と語るとき、主張したいことは主語の同一性ではないです。むしろそれぞれの主語となっているもの、海と空気と月が異なっていることの表現です。この場合、同一性が差異によって主張されていることになります。

実はヘーゲルの思考の元になったのは、生命にたいする洞察ではないか、と考えられます。組織は同型の細胞の集まりですが、異なる組織の集まりが一つの器官となり、やはり異なる器官の集まりが一個体となります。生命は確かに、多数性による一、差異に支えられた同一性であるとも思えます。熊野による表現は次のようなものです。「生命体は生命そのものと「合一」し「関係」している。他方、生あるものは生命一般と「対立」している。個々の生命は、生命そのものから「分離」していることで、おのおの生あるものである。」(熊野純彦『西洋哲学史 下巻』第10章)

そしてヘーゲルの表現は「生は結合と非結合との結合である das Leben sei die Verbindung der Verbidung und der Nichtverbindung」。よく言われる通り、この文体の晦渋さが理解を妨げているでしょう。

ヘーゲルはこのように、同一性と非同一性による同一性のような考え方を基本にして、時間の概念なども下のように考えていったようです。

「「いま」はつぎつぎと流れ去る。「点あるいは限界一般」としてとらえられた時間的「現在」は、ひとつの、おなじものでありながら、他となってゆくことで時間をかたちづくる。(中略)。前者なら時間は流れず、後者の場合、時間の連続性がひび割れる。(中略)。ヘーゲルは「いま」がおなじであり、かつことなることこそが「いま」の自己関係であり、しかも「絶対的に差異的な関係 absolut differente Beziehung」であると考える」(同上)。

ちなみにドゥルーズはヘーゲルの概念形式に、差異の概念を概念の差異に縮減するあやまりをみとめたらしいですが、この指摘は的を得たものと感じられます。

2.理性の狡智

上記のようにヘーゲルの思考には生命に対する洞察が根底にあって、彼の思想には差異による同一性、同一性と非同一性による同一性のような考え方が、あらゆる場面に現れてきます。ヘーゲルにおいては他者が主題として現れてきており、愛、歴史、運命、国家のような概念を対象にする場合でも、自己という同一性をもたらす差異としての他者、のような概念が根底に流れているようです。

ヘーゲルの用いた有名な言葉に「理性の狡智 List der Vernunft」があります。狡智とは一般に、現場のただなかには立ちいらずに、その周りから自分の目的のみを実現する「媒介する活動」のことです。歴史の総体とは、理性の狡知があたかも個人の情熱を手段として利用して、織り上げられたもののように見えます。自己という同一性が差異としての他者によってもたらされるように、ありえたかもしれない異なる可能性が、一つのものとして歴史を有らしめているのかもしれません。決して見通すことのできない他者としての理性が、歴史の根底にあるように思われます。近代形而上学の完成者としてのヘーゲルとは、相容れることのできない他者のようなヘーゲルを、これらの思想から垣間見ることができます。

参照文献:熊野純彦『西洋哲学史 近代から現代へ』(岩波書店)

<< 近代形而上学の完成

ホーム

哲学入門人名索引

ページのタイトルに人名が入ってないので、どのページがどの哲学者について書いているのか、自分でもよくわからなくなります。まだページ作成途中ですが(22/06/09時点)、人名索引ページを作っておきます。

人名順
アイネシデモス:古代の懐疑論
アウグスティヌス:アリストテレスの形而上学キリスト教神学へ
アナクサゴラス:古代原子論
アナクシマンドロス:哲学の始原
アリストテレス:あるということアリストテレスの形而上学
エリウゲナ:自然の四分割
エンペドクレス:古代原子論
カント:人間理性の限界自己を認識する自己
スアレス:近代形而上のイデア的認識
スピノザ:近代形而上のイデア的認識
ジョン・ロック:経験論の形成イデアへの反抗
ゼノン:あるということ
ソクラテス:知を愛することソクラテスのアイロニー
タレス:哲学の始原
デカルト:古代の懐疑論キリスト教神学へ機械論的自然観デカルトのコギト基体としての人間理性
デモクリトス:古代原子論
トマス・アクィナス:古代の哲学から中世の哲学へ神の存在証明
ニュートン:イデアへの反抗モナド論
バークリー:イデアへの反抗イギリス経験論の展開
パルメニデス:あるということ
ピタゴラス:哲学の始原
ピュロン:古代の懐疑論
フィロン:一者の思考
ヒューム:イギリス経験論の展開
プラトン:プラトンのイデア論アリストテレスの形而上学
プロティノス:一者の思考
ヘーゲル:近代形而上学の完成同一性と差異
ヘラクレイトス:哲学の始原
ボエティウス:古代の哲学から中世の哲学へ
マールブランシュ:近代形而上のイデア的認識
マイモン:自己を認識する自己
マルクス・アウレリウス:ヘレニズム期の哲学
ライプニッツ:経験論の形成モナド論
レウキッポス:古代原子論

ページ順
〇古代
哲学の始原:タレス、アナクシマンドロス、ピタゴラス、ヘラクレイトス
あるということ:パルメニデス、ゼノン、アリストテレス
古代原子論:エンペドクレス、アナクサゴラス、レウキッポス、デモクリトス
知を愛すること:ソクラテス
ソクラテスのアイロニー:ソクラテス
プラトンのイデア論:プラトン
アリストテレスの形而上学:アリストテレス、プラトン、アウグスティヌス
ヘレニズム期の哲学:マルクス・アウレリウス
古代の懐疑論:ピュロン、アイネシデモス、デカルト
一者の思考:フィロン、プロティノス
キリスト教神学へ:アウグスティヌス、デカルト
古代の哲学から中世の哲学へ:ボエティウス、トマス・アクィナス
古代の哲学まとめ:省略

〇中世
自然の四分割:エリウゲナ
神の存在証明:トマス・アクィナス

〇近代
近代の哲学を読むにあたって:なし
機械論的自然観:デカルト
デカルトのコギト:デカルト
基体としての人間理性:デカルト
近代形而上のイデア的認識:スアレス、マールブランシュ、スピノザ
経験論の形成:ジョン・ロック、ライプニッツ
イデアへの反抗:バークリー、ニュートン、ジョン・ロック
イギリス経験論の展開:ヒューム、ジョン・ロック、バークリー
モナド論:ライプニッツ、ニュートン
人間理性の限界:カント
自己を認識する自己:カント、マイモン、フィヒテ
近代形而上学の完成:ヘーゲル

同一性と差異:ヘーゲル

<< 哲学を学ぶにあたって 哲学の始原 >>

ホーム

近代形而上学の完成

シェリングやヘーゲルに代表される哲学が「ドイツ観念論」と呼ばれています。ドイツ観念論はかなり難解な思弁で織り上げられているのですが、このページでは古代ギリシア時代から続く形而上学の完成という視点で、ヘーゲルに焦点をあててまとめてみようと思います。

1.ヘーゲルの生涯

ヘーゲルに限った話ではないですが、思想家の生涯とその思想との間には、何かしらの関係性があったりします。ヘーゲルの生涯を簡単にまとめてみます。

ヘーゲルは1770年にシュトゥットガルトに生まれ、1788年秋にチュービンゲン大学に入学し、哲学と神学を学び、ヘルダーリンやシェリングと親交を結びます。最初フランス革命に熱狂しますが、その後幻滅することになります。ヘーゲルは大学卒業後、家庭教師をしながら勉強し、1800年にシェリングの推薦でイェナ大学に私講師の職を得ます。シェリングがイェナを離れてから伸びのびと活動しはじめ、1807年に主著の一つ『精神現象学』を発表します。革命軍を率いたナポレオンがイェナに入城してきたとき、ヘーゲルはちょうどこの本の最後の章を書き終え、筆をおいたばかりだったと伝えらているそうです。この本の序文でシェリング哲学に辛辣な批判をくわえシェリングと絶交することになります。18年にベルリン大学の哲学科正教授に招かれ、以後13年間自分の学派を形成し、学会に君臨しますが、31年11月にコレラであっけなく他界してしまいます。一方、シェリングはヘーゲルの死後、晩年にもう一度返り咲く機会に恵まれます。

2.主観と客観の同一的な意識

ドイツ観念論と呼ばれるカントの後継者たちの思想は、「自然の合目的性を見とおす悟性」、「神的な直感的悟性」といった、高度に抽象化された知性を探し求める方向に推移しました。そこで目指されたものの一つは、「主観と客観の同一的な意識」です。

カントにおいては、人間理性の支配が及ぶのはあくまで現象界、しかもその形式的側面に限られていました。しかし、たとえば悟性のカテゴリーがもっと多かったとしたら、物自体によって提供される材料は少なくてすむはずです。カントの12のカテゴリーをもっと弾力的に考えて、精神が成長するに応じて次々に新しいカテゴリーを発動させていく、というふうに考えると、無限のカテゴリーの増大の果てに、物自体のように根源的な接触不能性として精神の前に立ち現れるものは何もなくなるように思われます。このようなことは、個々の認識主観と自然界との関係においては考えにくいことなのですが、ドイツ観念論の展開の中で、悟性のカテゴリーが主観の活動一般のカテゴリーとして考えられるようになります。そして世界の方も単なる自然的世界ではなく歴史的世界としてとらえられるようになります。

3.労働の弁証法

ヘーゲルのいわゆる「弁証法」(Dialektik ディアレクティーク)を先に説明しておきます。対立関係にある二つの対象において、その対立そのものを包括して統一し、その繰り返しによってより一全体的統一へと生成していく、その運動の論理がヘーゲルの弁証法です。このことがなぜ弁証法と呼ばれるかというと、人間の知的な討論でより包括的な考え方により問題が解決される、そのような考え方が基盤としてあるためです。最初二人の間で意見が対立していたとしても、議論を交わすうちに対立をもたらしていた根本原因に気づき、対立をもたらさないより包括的かつ統合的な考え方が導き出されるでしょう。最初は至る所で対立関係があるとしても、次々に対立関係が統合されて、その統合された考え方もまたさらに統合されて、より体系化された思想へと昇華していくと期待できます。

ヘーゲルによると、精神の本質は可能的な自己意識を現実化していくこと、精神が精神になるその生成の運動にほかなりません。彼は精神の生成運動は労働を通じて達成されると考えています。たとえば森を切り拓き、農場を作成するとき、我々は労働による自然への働きで対象を変化させ、また同時にそこへの働きかけによって主体の方も成長していきます。成長した主体にとらえられる自然はまたその姿が異なって現れるでしょうから、労働による働きかけは一回で終わるわけではなく、連続して行われる労働のたびに、精神は真の精神へと近づいていくでしょう。

このように弁証法的な働きかけが進むと、もはや外界に異他的な力として精神に対立するものもなくなり、精神が見ることのできないものがまったくなくなるという状態が到来するはずです。このとき、精神は絶対の自由を獲得していわば「絶対精神」となり、歴史が完結することになります。ヘーゲルは、彼自身がまさにそうした歴史の最終段階に立ち合い、彼自身の哲学こそが絶対精神の体現の場だと考えました。ヘーゲルがそう考えたのには当時の時代背景もあって、フランス革命とその反動、そしてナポレオンの登場という時代の流れを、人間精神が真の精神へと生成する歴史の終幕を意味しているのだと考えられたためです。

4.近代形而上学の完成

カントに続くヘーゲル哲学によって、人間理性は社会の合理的形成の能力を約束されたことになり、世界に対する超越論的主観としての位置を保証されたことになります。ヘーゲルは「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」というテーゼを掲げていて、これは世界に対する絶え間ない弁証法的労働の結果、現実に実在するものは合理的なものだけになっているので、現実の全ては隈なく理性によって認識できる、ということです。現代を生きる我々の目には、いまだ制御どころか解明さえできない生命の世界が広がっているのですが、当時の時代背景では、近代形而上学の完成を宣言するものであったことでしょう。

  • 参照文献1:木田元『反哲学史』(講談社学術文庫)
  • 参照文献2:熊野純彦『西洋哲学史 近代から現代へ』(岩波書店)

<< 自己を認識する自己 同一性と差異 >>

ホーム

環境と接することとしてあるこころ

動物は「ブルート・ファクツ(ありのままの運動)」と呼ばれるオリジナルな運動を持っています。生得的ともいえるそのような運動が環境との接触により変化し、我々の目には、環境適応的な運動として見えています。環境適応的といっても、単純に外部刺激を受動的に受容することで行動が起こっているわけではありません。自身の利用する情報を自身の動きで作り出し、身体全体が一体となった知覚システムで受容することで、動物の行為は始まっていきます。

20世紀の感覚心理学は「外」受容感覚と「自己」受容感覚に二分して考えていました。また視覚に特権を与え、身体の動きを監視し制御する、人間の知能の座をそこに見いだしていました。このような伝統的な心理学における思考方法が上のような事態に対し妥当であるか、考え直す必要があります。

1.身体という統合的なシステム

1.1 ジャグラーによる玉への接触

ジャグラーを例に見てみます。ジャグリングでは使用する手より多くの玉を上空に投げ上げ、受け取り、また投げ上げる動きを続けます。投げ上げは正確な位置に落下させることと共にあり、完全な分離も統合も成されないこの二つの微妙な知覚的調整が、この技を成させています。ジャグリングの分析結果から、玉の動きのばらつきは手の動きのばらつきより小さいことがわかります。

ジャグラーがジャグリングに利用するものは、まずは眼です。優れたジャグラーは、特殊なゴーグルで玉の頂点の見えを15ミリ秒に制限しても5個の玉でジャグリングが可能であることが実験から示されています。また玉を見なくてもジャグリング可能なことも知られています。訓練を積んだジャグラーは光も手の接触も、双方を利用して玉のサイクルに「多重に接触している」といえます。おそらくいくつものシステムを統合させながら働かせているはずです。

1.2 身体全体での応答

ジャグラーは知覚システムの複数化を時間をかけて達成しています。このことを系統発生に広げて考えてみます。まず確認すべきことは、複雑な環境があって、それに対して知覚器官の複雑化が起こっていることです。進化でも個体発生でも、システムの複数化、多重化により得られる情報は冗長になっています。

ここでは「炎」が知覚されるということを例にとります。炎は光、音、匂い、熱などが関係し合って独自の現れを提示する出来事であり、炎の本質というべきはこの複雑な関係の仕方とみなせます。この複雑さを扱う方法の一つに、ある器官ともう一つの器官の情報の関係の複雑さによって捉えることがあります。「平衡胞」は体の傾斜の知覚器官ですが、地面の接触面からの情報により、平衡胞内部にかかる力と地面からの垂直抗力の方向のずれから、地面の傾きという環境の不変な性質を知ることができます。

関連ページ:動物が自ら作り出す意味

一つの知覚の器官にもう一つの器官が加わったとき、生じるのは単純な多重化のみではなく、二つのシステムの関係は組み換えられて、もとのシステムも変化していると考えられます。新しい知覚システムの発生のときには、システム間の関係の本質的な変化が起こっているはずです。我々の現在の眼や耳や皮膚のあり方も、他のシステムとのかかわりの中で、その働きも構造も変更されてきたのだといえます。「このように知覚の器官が相互に関係をもち、共変し複雑な情報を獲得できるようになるにつれ、動物の知覚できることの複雑さは環境にある複雑さに徐々に近づく。」(佐々木正人『アフォーダンス入門』、第六章)。

2.歩行のプールからの歩きのパターンの現れ

次は赤ちゃんの歩行パターンを見てみます。産まれたばかりの赤ちゃんは、「反射歩行」とよばれる両脚の動きを示します。いったんこの反射歩行が消えることから、運動生理学的には、反射歩行は「本能的な行動をつかさどる脳の下位にある運動中枢に蓄えられている歩行パターンのあらわれ」(佐々木正人『アフォーダンス入門』、第六章)で、それが見られなくなったのは「脳の上位の運動中枢による下位の中枢の反射機構の抑制」(同上)の結果であると説明されてきました。しかしプールの中でさせてみると依然反射歩行を行っており、実際のところは成長で体が重くなって重力の影響で起こらなくなっていただけです。いろいろな実験を行ってみると、赤ちゃんは「反射歩行」「蹴り」「トレッドミル歩行」「独立歩行」という四種の歩行を同時期に行っていて、異なる発達過程を持つこれら4つの「歩行のプール」から、実際の歩きのパターンがあらわれてくることがわかります。

3.多数の動きの集合として環境に出会う

手でカップをつかむとき、手を伸ばしてつかむまで、微小な手の動きが多様に見られます。これは「アー」とか「エー」とかの言い淀みのようなものです。微小行為のあらわれには種々の条件が影響し、たくさんの物が乱雑に置かれたようなところでは多くなります。一方で、シンプルな状態を設定しても、練習を行ったとしてもなくなることはありません。

インスタントコーヒーをカップに入れる場合を観察してみます。動作を見てみると、最短の手順でコーヒーを入れる人はあまりいません。カップにコーヒーの粉を入れるとカップの見え方が変わり、その見えが変化するように、お湯を入れたり先にミルクや砂糖を入れたりして、自分の行為で変わっていく環境を見ながら新たな行為を連結して、最後の見えにまでたどりつくことになります。さらにこのときの一つ一つの行為は、「砂糖の容器を持ってくる」、「スプーンを持つ」のような微小な行為にわけることができます。微小行為は、つぎに「お湯をそそぐ」とか、「コーヒーを入れる」とか、行為の区切れ目で多くなります。行為が変えた環境の見えが、次の行為を導くことから現れていると考えられます。行為の区切れ目では次に現れ得る行為は多様であり、その環境が可能にしてくれる身体動作が探られることにより、多様に可能な行為の中からその行為が選択されるのでしょう。 

4.人間の行為に潜在するもの

以上のように人間の行為においても、「ブルート・ファクツ」が環境との接触により成人の動作へと変化していくこと、日常的でありかつ知的な動作においても多様に可能な動作の中からその都度選択され続けて行為が成立することが示されています。人間の知的な行為でも、環境と一体化した行為の選択がそれを可能とすることにおいて、動物となんら変わりはありません。もちろん人間の知性的行動が動物の行動とまったく同じではないのですが、知性的行為の成立を、動物行動からのよりいっそうの統合として考える必要があるのではないでしょうか。

5.多数との関係においてあるこころ

佐々木正人『アフォーダンス入門』の最後の段落に、次の一文があります。「ぼくらがこころとよんでいることの本当の姿は、この進行する多数との関係に起こりつつあることなのである」。この一文は間違いなく佐々木による『アフォーダンス入門』の総まとめです。伝統的な心理学における、行為と切り離されたこころでも、外受容感覚と内受容感覚に二分された知覚でもなく、身体全体とともにあるこころのありようを表現したものです。

この一文は、木村敏によるゲシュタルト・クライス解釈と同じ地平に立った解釈だとみなせるでしょう。木村がゲシュタルト・クライスの概念に見た「主体」とは、生命が環世界との接続を切断するとともに接続し直すことで接触を保ち続ける、その瞬間のことでした。心身二元論を超えるこころと身体の理論を追い求めた結果、異なる分野の二人の思想家が、同じ終着地点を見つけ出したということではないでしょうか。

関連ページ:ヴァイツゼッカーによる主体

  • 参照文献1:佐々木正人『アフォーダンス入門 知性はどこに生まれるか』(講談社学術文庫)
  • 参照文献2:木村敏『からだ・こころ・生命』(講談社学術文庫)

<< 動物が自ら作り出す意味

ホーム

Older posts