知能行動(オートポイエーシス論)

「本能行動と欲求行動(オートポイエーシス論)」のページにおいて、環境との相互浸透による運動成分連鎖の縮減と新生を、それぞれ本能行動と欲求行動として記述しました。この記述の仕方だと、両者の間にローレンツの考えるほどの相違はないことになります。そうであるならば、欲求行動のうち高等哺乳類にのみ見られる洞察的知能行動も同様に記述できるはずです。神経系を持つ動物であれば持つであろう本能行動と、類人猿の道具使用などの知能行動がほとんど変わらないというのは、大きな違和感が残るのも確かです。ひとまずこのページでは、類人猿の道具使用(知能行動)が上述の欲求行動と同様に記述できるか見てみることにします。

1.類人猿の道具使用

コンラート・ローレンツがケーラーの残した動画をもとに、類人猿が台を使ってバナナを取る行動を詳細に記述しています。彼の記述は次のようなものです(「心理学と系統発生学」Ⅵ章、『動物行動学Ⅱ』所収)。

部屋の天井にバナナが紐でつるされており、それはオランウータンが床からとどかないほどの高さであった。部屋のすみにはオランウータンが梯子として用いるのに十分なだけの高さの箱がひとつ置かれている。洞察的な行動に関するさまざまな試験をかつてうまくやりとげたことがあるがこの新しい問題は知らないオランウータンは、まずバナナの方をちらっと見て、それから箱の方に眼をやり、しばらくとまどって両方を見くらべる。このとき彼は、ちょうど深く考えこんでいる人間のように頭–や体の他の部分–をかきむしる。それからかんしゃくを起こして手足をばたばたさせ、大股に歩いて侮蔑したようにバナナや箱に背をむける。けれどもそれでも彼は落ちつかず、再び問題にたち返り、餌と箱の間をくり返し見くらべる。今まで不きげんだった彼の表情は急に≪明るくなり≫、眼は今やバナナからバナナの下の床の空間へ、そして箱へ、それから再び床の空間へ、またそこからバナナへと移る、としか私にはいえない。次の瞬間に彼は歓喜の叫びをあげて得意のとんぼ返りをしながら箱の方へ行き、今度はバナナが手にはいることをすっかり確信してただちに箱をバナナの下に引いてくる。

以上の洞察による行動を行うためには、既に成立している複数の行動連環を結び付けて、一つの新たな行動連環を生起しなければなりません。学習と同様に、記憶領域の賦活によって、一つの行動連環として生起するとみなすことは可能です。しかし、学習では元になる行動連環はすでに継起しているのに比べ、上記の道具使用は、今その瞬間の知覚器の興奮では生起しない行動連環を、試行錯誤などではなく起動しなければなりません。

2.未来像

上で述べられたような洞察的行動を、神経系のみで説明するのは非常に困難です。したがってここでも欲求行動のときと同様に、意識や認識の浸透により、身体動作の連環が生起していると考えることにします。また道具使用を行っているときの類人猿の主観は人間とほぼ同様であると仮定します。

人間の意識への現れを参照にすると、上のオランウータンでもバナナが取れることを確信した瞬間(「ははあ,そうか体験」)に、連続して現れる表象が一つの統合された表象として現れ、あるべき未来の像として意識に現れていると考えられます。この統合されて現在の知覚像の基底となる知覚像を「未来像」と名付けておきます。この未来像に導かれるように、それまで成立していなかった身体動作が連環を成していきます。

3.自己言及による未来像の説明

3.1 自己言及による未来像の記述

このサイトでは本能行動や欲求行動を身体の状態の連環で考えていて、縮減を本能行動、新生を欲求行動としています。
関連ページ:本能行動と欲求行動(オートポイエーシス論)

洞察的行動でも身体の状態の連環が新生されるわけですが、環境の攪乱のところに、新しく成立した認識状態(未来像)を環境とする攪乱が加わります。オートポイエーシス論として記述するには、基体・構成素、構造、産出プロセスが何かを見定める必要があります。

まず未来像は構造として考えることができそうです。そうするとその基体・構成素と産出プロセスが何かを決める必要があります。すでに意識、認識(ゲシュタルト知覚)を身体の自己言及システムの構造として記述しているので、これら構造である意識、認識の自己言及として未来像を記述してみます。自己言及の定義は下の通りです。

  • 自己言及:オートポイエーシス・システムのそれまでの作動が、新たな構成素の産出に際して攪乱を与え、その構成素もしくは構造の状態がシステムそのものの作動を反映すること。

関連ページ:システムの自己言及

自己言及として考える場合は、構造である意識、認識が構成素である表象(山下和也の考え方)の新たな産出を攪乱し、新たな構成素または構造が意識システムの全体を反映すると考えることになります。次の時点の構造が構成素や産出プロセスを介してそれまでの構造を反映するという言い方もできます。この「それまでの構造(意識、認識)」が「次の時点の構造」を反映するということが、類人猿の心的事象としては「未来像」という形で現れてきます。

3.2 未来像と現在の認識の関係

人が台をバナナの下にもってきてバナナを取るとき、確実に認識されているのは目の前の視覚像です。一度成立した未来像は基底として現在の視覚像を揺さぶり続け、一連の行動の連環を導いていきます。

「揺さぶり続ける」のような曖昧な言葉遣いをするなと怒られそうですが、自分が道具を使用するときの認識は、そのような言葉遣いでしか言い表せません。「未来像」という言葉を使いましたが、確かに現在の知覚像とは違う認識が成立して行動を誘導しているという確信はあるのに、明確には知覚像として現れてきません。未来像の主体への現れは確かにあるという感じであり、その役割は視覚像(本来は視覚に限る必要はない)を固定せずに新たな行動連環へと開いた状態にすることです。

3.3 未来像と身体・神経系との関係

知能行動は類人猿で初めて起こるわけなので、身体と神経系の発達により身体動作および表象の連環が多様化して、この多様化により自己言及が可能になっているはずです。この自己言及を引き起こす身体・神経系の多様性の度合いに明確な境界があるわけではなく、類人猿とその他の猿に漠然とした境界線があると考えられます。

また、この自己言及による攪乱と新生はその瞬間に成立してすぐに消えるような不安定なものでしょうし、一方で身体構造の固定性によりある程度の限定も受けているでしょう。一度成立した未来像とそれによる知能行動も、常に類似の状況になれば生成されるというわけではないでしょう。

3.4 知能行動(道具使用)の図式化

自己言及の図式化はまだ行われていないため(図式化が行われたのは自己言及システム)、知能行動の図式はこれまでとそれほど変わりありません。欲求行動の図(図1(a))では環境との相互浸透による経路の新生であり、システムの構造との特段の対応関係があるわけではありません。それに対して知能行動では、環境のうち意識(自己言及システムの構造)と認識が自己言及でそれまでの自己の構造を反映するという状態(未来像)が加わり、それにより身体動作連環のさらなる新生が生じます(図1(b))。

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マルクスの哲学

共産主義思想や経済学思想で有名なマルクスですが、彼にはヘーゲル、シェリングとよく似た思考パターンが認められるようです。マルクスを形而上学者とみることはできませんが、彼の経済学批判は哲学的な基盤があってのものです。ここでは広義の西欧形而上学の批判者としてのマルクスを見てみることにします。

1.マルクスの自然主義

マルクスは1818年、プロイセン生まれで、大学で法学・歴史学・哲学などを学び、41年にイェナ大学で学位を取得しています。ユダヤ人には大学教授への道は閉ざされていたことから、新聞記者となって健筆をふるいます。パリに移住して雑誌『独仏年誌』の創刊(44年二月)に携わりますが、一号で廃刊になり、その発刊の直後から八月までのおよそ半年間に書かれたのが、のちに『経済学・哲学草稿』と呼ばれることになるノート群です。これらは遺品のなかからみつかっており、マルクスその人の独自の思想を読み取ることのできるものだと考えられています。

『草稿』でのマルクスの立場は、観念論でも唯物論でもなく、同時に両者を統一することのできるのが「自然主義すなわち人間主義」である、というものです。これまでの唯物論は、対象となるものをすでにあって変わることのない「客体」としてとらえていました。しかし自然とは変化しないものではなく、それ自体で変化することによって維持されるものといえます。そしてヘーゲルの言うように、人間は対象に働きかけ、その中で対象から働きかけられることでより高次の人間に成長してゆくという能動性を持っています。人の持つ能動性と働きかけられることで変化していく自然の動的側面が、従来の唯物論にはとらえられていませんでした。

逆にそういった動的側面を捉えたのがヘーゲル哲学の労働の弁証法です。しかしヘーゲルにおける労働の主体は抽象的な精神でしかなかったため、動的側面はあくまで「抽象的」に考えられていたにすぎませんでした。このように両者とも半面の真理しかもたないので、この二つの立場を統合し、ヘーゲルの労働の弁証法における抽象的な主体ではなく、実在的な人間に置き換えてみれば真理を見いだすことができると期待できます。

2.資本主義批判

マルクスの考えでは、本来は人間と自然は労働過程を通じてその本質を完成するような関係です。そのようなことが起こる理由として、人間が「類」として存在するとともに、自然と人間の間にも類的関係が存在するからと考えられていました。しかし資本主義において労働者は、類的存在である自然から切り離された工場の中で働き、自分の労働生産物を自分のものとして使うこともできません。本来そこにあったはずの弁証法的な高め合いが見られなくなってしまっています。

マルクスは労働者だけでなく労働そのものが労働の本質から疎外されたと考えているのですが、その原因に私有財産制を見ているようです。彼がなぜ私有財産制が原因と考えたのかははっきりしませんが、私有制を廃し共産主義社会を実現すれば、労働と人間の自然が回復されると考えていたということでしょう。

3.人間と生きた自然との間の弁証法

木田元によるとマルクスの考え方にはシェリングと非常に似ているところがあるそうです。

「労働過程とは、それ自体では混沌である自然がおのれ自身のうちに労働の主体を出現せしめ、それと自然の他の部分とのあいだに弁証法的運動を起こさせて、いわばおのれの本質を完成することだと考えてよいと思います。むろん、そうした自然は無機的物質などではありえず、生きた自然と考えざるをえません。」(木田元『反哲学史』第十章)。

近代形而上学の完成者と見られるヘーゲルには、そこには包摂しきれない生命論的な観点があるのでした。シェリングの「生きた自然」と同じように、ヘーゲルの労働の弁証法も、生成の原理を自己のうちに内包する自然という概念によって、成立し得たものかもしれません。そうするとこの思考パターンは、彼らがなんらかの影響を受けたロマン主義にあった一つの思考パターンなのだと考えられそうです。

関連ページ:同一性と差異

4.次代の経済学、社会思想へ

マルクスには経済学思想家と社会思想家としての顔もあって、今現在でも重要な視座を与えてくれています。たとえばケインズの「流動性選好」に、マルクスの「貨幣の物神性」と類似の思考をみることも可能と思われます。マルクス主義と呼ばれる経済学・社会思想の流派が存在しますが、必ずしもマルクスの考え方を的確に引き継いだというわけでもないようです。

参照文献1:木田元『反哲学史』(講談社学術文庫)
参照文献2:熊野純彦『西洋哲学史 近代から現代へ』(岩波書店)

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子供の言葉と周りにある「意味」

アフォーダンス概念を用いて子どもの言葉の獲得の場を考えることができそうです。このページでは佐々木正人の児童心理学的考察をもとにして、子供がどのように言葉を獲得しているか、考察してみることにします。

1.子供の周りに配置された意味

子供が言葉を獲得するとき、その周りは大人たちに配置された、多種多様な「意味」に囲まれています。言葉は普通、大人との関係の中で子供に受け継がれていくのですが、その関係を可能にする環境の影響を無視することはできないでしょう。大人も子供もその環境があってその行為が可能になっているのであり、ギブソンは特定の環境が特定の行為を可能にしてくれることを、「アフォーダンス」の言葉で指し示しているのでした。アフォーダンスとは、知覚と行為の瞬間に現れる、まだ名づけられていない「意味」のことだといってよいでしょう。いまだ定まった定義のない言葉の「意味」も、我々が読み取っている環境の「意味」と無関係ではないはずです。

関連ページ:アフォーダンスの定義

2.環境の修正の仕方

我々の周りの環境は、長い年月をかけて修正されたものです。狩猟採集民から農業・牧畜の時代を経て、現代にいたってはそれらの時代と大きく変節した修正された環境があるように見えます。しかし大まかな修正の仕方にはなお共通の性質が見受けられます。

生態心理学者のリードは、人間による環境の修正の仕方を「物の変形」、「場所の変形」、「出来事の変形」に分類しています。第一の「物の変形」に関して、「基本材料」、「アフォーダンス」、「道具」の三つの間の対応関係を認めることができます。たとえば、基本材料として<植物:木>、<鉱物:石>、アフォーダンスとして<耐久性:たたく、たたき切る>、道具として<たたき切るもの:斧>のような組み合わせを考えることができます。

第二の「場所の変形」は、住まいの内と外の区分や、貯蔵や調理などの特別な場所とそのための物の設置など、「多種の活動の場を作り出すための、面の独特な配置」です。第三の「出来事の変形」は時間の構造化のことで、自然環境による構造化に加え、たとえば火を明かりとして利用することで、活動時間を延長することができます。

産業革命以来、環境の修正方法と速度は急激に拡大してきたのですが、人間の活動を動機づけていることは長い時間を超えて共通です。子どものまわりにあってその意味を読み取るのも、このような変形を受けた環境です。そして子どもが見ているのは、大人たちが共同して行っている物と場所と出来事を変形する行為です。ことばの獲得は、このように人に行為を促す意味が注意深く配置されたところで進行していきます。

3.言葉の意味と環境の意味

意味が配置された環境で子供は言葉を習得するわけなので、重要になるのは、どうやって周りにある意味に出会うかです。子供は他の誰かと一緒にいて、養育者との深い関わり合いを持ちます。子供の養育を行う大人がまず行うのは、多様な仕方で子どもの「注意を引く」ことです。そうして養育者は子供との間で循環する働きかけにより、周りの世界に注意を注ぐ人へと子供を仕立てることになります。

子どもへの働きかけは質的に変化していきます。「注意引き」は0歳代後半になると周囲にある物へ「注意を向ける」交渉に変わり、6~12ヵ月齢における遊びは、「イナイイナイバア」やくすぐり遊びのようなコミュケーションを目指す遊びから積木遊びのような物を中心とした内容に変わっていきます。その際、使われる物によってコミュケーションの質は変化します。物と人とを特定の行為に導くような物がある場合には、その物を中心にして大人と子供との関わり合いが継続されます。逆に行為が一定に限定されていないおもちゃで、交渉によってそのおもちゃへの関わり方が共有されていく場合もあります。

子どもが周りから意味を読み取れるようになるには、意味を探る行為が可能であるということが必要です。まだ自力では移動できない6~10ヵ月児を自力で移動できる歩行器に入れる実験から、歩行器に入れることで周りへの働きかけの質が変わり、行為の頻度や種類も増える結果が得られています。子どもたちのことばの獲得も同じように、意味の配置された環境への働きかけとともに行われています。

子供はその現場に根付いた「個性語」をまず獲得し、その個性語が変化・発達していきます。個性語の具体例を一つ挙げます。「スプーン」の獲得はまず、「アーンと口を開けてパクンと食べる」ことを意味する「アップン」と、スプーンとの中間的な表現である「アプーン」が使われ、長い交渉のすえにその個性語が発達することで成されます。また文法の獲得はまず個別の動詞ごとに語形変化が現れ、一般的な動詞の変形規則はその後に得られます。「文法」は特定の場面と緊密に結び付いて、個性的に誕生します。

4.一語文から多語文へ

上記3節までが佐々木正人「ことばの獲得を包囲していること」のだいたいの要約になっています(用語は一部自分の使い方に変えています)。子供が「アップン」や「アプーン」という個性語を使うときに生じているのは、言葉を使うこと自体による喜びであったり、「こないだのアレをアレで食べさせろ」といった命令であったりするでしょう。「アップン」はたった一語で「アーンと口を開けてパクンと食べる」という、一つの行為を示しています。我々が指し示すような、物をすくって食べるための形状を持つ範疇としての「スプーン」などではないはずです。

「アップン」という語が一つの行為を示す、このように解釈することがすでに古典的な言語哲学批判となっています。西洋には「イデアに裏打ちされた物」のような考え方が、知らずと奥底に根付いているように思われます。子供が獲得した言葉が範疇としての「名詞」などではないのだから、目の前にある物が、形、色、大きさ、臭い、その他諸々の性質の集合体であっても、「性質の多様さからその言葉が何を示しているのか子供が知りようがない」などということを考える必要はありません。子供は周りの世界との関わり合いの中で、目の前の物へと惹きつけられるようにしてかかわっているのだから、その子供が言葉で指し示していることは彼にとっては自明なものとして決まっています。もちろん、大人との間で厳密な意味での意思疎通は成立していないでしょう。しかしすでに子供は周りの世界に注意を注ぐように仕立てられているのだから、長い交渉の末に周りの人たちとも意味が共有されることになります。そしてたった一語で行為を示す一語文は、名詞(対象)と動詞(操作)の二語文、さらに主体や性質を表示したりして、3語文以上の文へと変化していくと考えられます。

参照文献:小林春美・佐々木正人監修『新・子どもたちの言語獲得』第10章

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生成する自然(後期シェリング)

ヘーゲルの死後、近代形而上学への批判が高まる時代が到来します。ヘーゲルにしてもヘーゲルの近代形而上学を批判する思想にしても、彼らの生きた時代背景と無関係ではなかったようです。木田元によると、後期シェリングからマルクス、ニーチェまで、彼らの思想は近代理性主義、プラトン以来の形而上学的思考様式への批判を本質として含むのではないかと考えられています。ヘーゲルに隠れて忘れ去られた状態だったシェリングが、半ば時代の要請から、もう一度ヘーゲル没後に返り咲くことになります。

1.理性主義批判の時代

近代形而上学を完成させたともいえるヘーゲルの晩年にはすでに、近代ヨーロッパ文化そのものへの反省が時代の背景として始まっていました。フランス革命に当初は「自由」と「平等」が期待されたのですが、結局、「人間を非人間化しつつあった資本主義的経済体制の担い手であるブルジョワジーが政治的主導権を奪取する機会にすぎなかったということ」(木田元『反哲学史』第十章)が明らかになります。またフランス革命の反動から旧制度(アンシャン・レジーム)が復活され、現実が決して理性的でないことが実感されつつありました。そういった時代背景もあって、1830年代以降はヘーゲルに代表される理性主義の哲学への批判が、さまざまな角度から展開されることになります。

2.積極哲学と消極哲学

シェリングによると近代の理性主義的哲学は、理性によって性質(本質)として認識される事物の「本質存在(エッセンティア)」だけを問題にし、すでにあるという事物の「事実存在(エクシステンティア)」には眼をそむけています。しかし実際には、人間理性では理解できないような悪や悲惨な事実が現実世界にあふれています。デカルトは理性で捉えられるものだけが存在するとして、非合理な事実存在を無視しようとし、ヘーゲルは「現実的なもの」=「理性的なもの」とみなして、やはり非合理な現実は無視しようとしました。シェリングはそのような理性主義の哲学を「消極(ネガティブ)哲学」と呼び、それとは反して非合理な現実という事実をあえて問う自分の哲学を、「積極(ポジティブ)哲学」呼びました。この積極(ポジティブ)という言葉には二重の意味が込められています。

木田によると、英語のpositiveという形容詞には、二系列の意味があるそうです。①肯定的(否定的)、積極的(消極的)といった言葉で対として訳されるような意味と、②事実的、実証的、実定的といった言葉に訳される意味です。①の方の意味の由来は簡単ですが、②の意味の由来は複雑です。こちらのもとになったのは、神によって創造され定められた「事実」であるpositumです。キリスト教では神によって世界が造られたと考えられているわけですが、世界には悲惨な出来事が起こったりして、このことをどう理解してよいのかわからなくなります。このことについて、次のように考えることができます。

どれほど人間の理性には理解しがたいことであろうと、やはり神がponoした(定めた)ことなので、神にはそれなりの意図があったにちがいない。そもそも人間の理性で神の意図を推し量ることなどできるわけなく、神によって定められたpositum(事実)として受け容れるべきだ、というふうにです。

上記のような議論の流れからpositumという言葉が使われはじめ、人間の理性では決して受け入れられないが、現実として認めるしかないような事実を意味するようになりました。そのうちそういった宗教的意味は忘れ去られ、positive=事実的という意味だけが残りました。シェリングはこちらの(人間理性では受け入れがたい)「事実」の意味と「積極的」という意味の両方をpositiveにこめて使用していることになります。

3.生成する自然

シェリングは合理的な事物の本質存在は神に由来するが、非合理な事実存在は神よりももっと根源的な神の根底に由来すると考えています。ここでいう神は理性と言い換えてもよく、彼は神の根底を「神の内なる自然」(Natur in Gott ナトゥーァ・イン・ゴット)と呼んでいます。「彼は神を光、神の内なる自然を闇に喩え(中略)、それ自体では混沌である自然がおのれのうちから神(理性)を発現させ、それによっておのれを照らし出させるのだとシェリングは考えているようです。」(木田元『反哲学史』第十章)。

彼による神の内なる自然とは、生きて生成、生動する自然のことです。そして彼のいう「人間的自由」というのは、いわゆる自由意志のようなものではなく、生きた自然が生動するその「生」が人間において現れてくる姿のことです。シェリングは生きた自然を復権することで、近代の物質的自然観、つまり近代形而上学を克服しようと試みていたと考えることができます。

4.実存主義へ

現実の非合理性を説くシェリングの後期哲学は、若い世代の共感を呼ぶようになります。その背景には自由民主化を求めた運動への弾圧といった、非合理な現実に彼らが直面していたという事情があります。1841年のベルリン大学哲学科主任教授への就任講義には、エンゲルス、バクーニン、キルケゴールらが出席していました。当初は彼らに熱烈に支持されたのですが、シェリングの思想がどこまでも神学的神話学的思弁のかたちでしか展開されないことに幻滅して、彼らはシェリングのもとから去っていきました。

ただし、そのうちでキルケゴールはその講義から「実存(エクシステンツ)」という概念を学び、独自の思索を深めていきます。彼により実存の問題はシェリングのものよりスケールが小さくなるのですが、逆にそれだけ先鋭化されて、20世紀の実存哲学や実存主義に受け継がれることになります。

参照文献:木田元『反哲学史』(講談社学術文庫)

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本能行動と欲求行動(オートポイエーシス論)

動物行動学の詳細は「動物行動学入門」ページ(22/06/23時点で未作成)にまかせるとして、動物行動学において重要な区分である「本能行動」と「欲求行動」についてオートポイエーシス論で記述できるか、検討することにします。

まず本能行動と欲求行動は次のように説明できます。

  1. 本能行動:経験による適応的修正を蒙らない、種内に共通して現れる定型的行動パターン
  2. 欲求行動:経験による修正を余儀なくされる行動様式

上の定義からは学習や洞察的行動も欲求行動に含まれることになります。また本能行動は神経系が発達していない動物でも成立するのですが、ここでは脊椎動物の場合で考えることにします。

本能行動と欲求行動をオートポイエーシス論で記述するために、次のことを前提とさせてもらいます。

  • 本能行動とともに意識・認識(ゲシュタルト知覚)が生起する。
  • 生起したゲシュタルト知覚は動物行動に浸透する。

知覚像や認識像が比較的低次の神経系を持つ脊椎動物(魚類など)でも成立するか、また成立したとしてそれが動物行動に浸透するかどうかは、根源的に明らかにすることができません。一応は動物行動を神経生理学的概念のみで記述可能ではあるのですが、極めて煩雑な記述になり洞察的行動まで含めるととても記述しきれません。そのため上記のように、脊椎動物では「身体の作動とともに意識・認識(ゲシュタルト知覚)が生起し、それによって行動が変化し得る」とします。

1.縮減と新生による本能行動と欲求行動の説明

このサイトではルーマンの縮減概念を、「産出プロセスのプールの中で、環境や構造による攪乱によって、その瞬間のプロセスが決定されること」と定義しました。大澤真幸はルーマンの縮減概念に関し、システム内部の複雑性は環境の複雑性より少なくなっていて、その複雑性の縮減の度合いが大きいほど、社会システムは進化していると考えています。さらに、システム自身が複雑で多様な経路を持つことで、外部の変化に対応した応答が可能になるとされています。

これと類似の思考を、ローレンツの欲求行動の概念の中に見ることができます。彼の考えでは、高等哺乳類の知的作業は本能(もしくは行動を方向づける欲動)の貧困化ではなく、むしろ比較的独立な個別本能が豊かであることが、生存に不可避な課題の実現以上の多くのものを経験させ探求を可能としています。以上、大澤とローレンツの考えから、より多様となった本能プールの中で、周りからの攪乱によってその個体ごとの定型化された行動が現われ、それが可変的適応性をもつ「学習」として我々の目に映っている、そのように考えられそうです。

そうすると本能行動と欲求行動の間に、ローレンツの考えるほどには厳密な差異は存在しないということになるでしょう。実はローレンツ自身も本能行動を成す個別の運動成分に可変性を認めていて、生得的なのは行動が連結されて体制化されるそのパターンにおいてです。ここにはなお考慮に入れないといけない事項のかかわり合いがあるのですが、ひとまず環境との相互浸透による運動成分連鎖の縮減と新生を、それぞれ本能行動と欲求行動として考えることができそうです。多数の本能行動は、身体(神経系を含む)という種に固定された環境によりそれ自身が種固定的となり、身体外部の環境との相互浸透により、そのときどきの個別の本能行動として現れます。欲求行動における可変性は、多様化した本能行動プールのうちで、身体と身体外部双方の環境との相互浸透により、本能行動成分の間に新たな連環が成立することで現れてきます(注:ローレンツの考えとは相違がある)。

関連ページ:ルーマンの縮減概念

2.本能行動と欲求行動の図式化

これまでに動物行動、ゲシュタルト知覚、縮減についてオートポイエーシス論による模式図化を試みました。いずれも図式化の模索中であり、確信の持てるモデル図はまだ得られていません。本能行動と欲求行動の模式図化はこれらの図を用いて行う必要があるので、両模式図とも便宜的なものにとどまらざるを得ません。

動物行動と縮減概念の模式図をもとにすると、本能行動と欲求行動を図1のように描くことができます。

次に、ゲシュタルト知覚の模式図をもとに本能行動と欲求行動を図示すると図2のように描けます。本能行動において生じるゲシュタルト知覚と欲求行動において生じるゲシュタルト知覚の間に、特別の性質の違いはないと前提した図になっています。

関連ページ:動物行動(オートポイエーシス論)オートポイエーシス論によるゲシュタルト知覚ルーマンの縮減概念

<< ルーマンの縮減概念 知能行動(オートポイエーシス論) >>

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