カントの認識論に対し、それまでの知覚と認識の議論を整合的に体系化するという方向性で発展させていく、という道もあったはずです。しかし後世にドイツ観念論と呼ばれるカントの後継者たちは、対象の認識ではなく対象の認識をする自己を認識するといった、高度に抽象的な方向に進んでいくことになります。彼らが対象としようとしたものは「自然の合目的性を見とおす悟性」、「神的な直感的悟性」(熊野純彦『西洋哲学史 下巻』、第9章)といったものです。このような高度な知性を辿る思索によって、カントの批判哲学を超えることができるのではないかと、彼らは考えたようです。
このページではドイツ観念論を代表するヘーゲルの前に、彼とカントとをつなぐ抽象化された議論を、少しだけ覗いてみることにします。
1.意識と表象
カントにおいて、感性の形式で与えられる所与が、認識の形式を規定する悟性によって、因果関係のような抽象的な次元を含む認識として現れるのでした。何かの認識は意識へと現れるのであり、その現れを意味する言葉が「表象 Vorstellung」です。感性により時間や空間の形式を伴って意識へと現れるのですが、我々人間においては因果関係のような次元を伴って表象として現れます。感性と悟性をわけて考えると、感性による現れと悟性による現れ(表象)をつなぐものが必要となって、それがカントの「構想力」です。
カントの継承者を自認したマイモンは、ライプニッツの微分概念を用いて以下のように考えました。感性にはただたんに多様な感覚が与えられるのではなく、意識に微分として与えられます。この微分はモナドの考え方を適用すれば、その瞬間(微分)が全体を自身の状態として表出するとみなせます。そうするとそれぞれの微分のなかに対象全体が織り込まれているので、悟性は多数の微分からその対象全体を再現するように、対象が関係付けられた状態で認識できるはずです。感性の与える微分を構想力が全体として形づくり、微分間の関係から悟性が対象相互の関係を作り出します。
ただし熊野によると、マイモンのいう微分はライプニッツの微小表象のことらしいです。一つの表象は実際には意識されない微小な表象をもつと考えられています。熊野の説明は次のようなものです。「たとえば、微細な青の斑点と黄色のそれとが緑色の表象を与えるとき、ふたつの色を知覚しているのでなければ、緑の表象もまた生まれない。けれども青と黄との微小な表象は、意識にのぼることがない」(熊野純彦『西洋哲学史 下巻』、第9章)。何かしらのゲシュタルトを構成する要素(○とか×とか要素自体はなんでもよい)も、この話題と関係づけて考えることができるかもしれません。
なお、このページの内容からはそれるのですが、「表象」の言葉で「ゲシュタルト知覚」、つまり対象としての意識への現れを指す人もいます。これは人間でなくても中枢神経系を持つ動物、とりあえずは脊椎動物もそのような意識への現れを持つでしょう。このページの「表象 Vorstellung」は高度に抽象化された人間意識への現れを指す、人間に限定された言葉であることを断っておきます。
2.絶対に一にして同一な意識
初期ドイツ観念論と呼ばれる学派が、「ドイツ国民に告ぐ」で有名なフィヒテからはじまります。フィヒテはまず、カントの議論を批判的に引き受け、反省的に与えられる自己の認識について思索しています。認識の認識のような次元では、反省的に私が私であることを意識する必要がありますが、当然乳児にそうした反省は欠けているので、自己という認識をもたらす反省がどこからくるのかよくわからなくなります。何が始まりかを考えるとよく循環してしまうのですが、これもその一つで、自己の概念をもたらす反省は自己が成立していないと始まらないので、二つのどちらかに始まりを求めると循環して収拾がつかなくなります。そして自己定立を行う自我に特殊な権能を与えるような、自己撞着的な意見に発展しかねません。
無限後退の原因の一つは、意識において、主観(意識するもの)と客観(対象)とがたがいに区別されていることと考えられます。それに対するフィヒテの考えは、「そのうちで、主観的なものと客観的なものがまったく分離されず、絶対的に一にして同一であるような一箇の意識が存在する」(熊野純彦『西洋哲学史 下巻』、第9章)というものです。「主観と客観の同一的な意識」は、ヘーゲルの「絶対精神」の思想に受け継がれていくことになります。
- 参照文献1:熊野純彦『西洋哲学史 近代から現代へ』(岩波書店)
- 参照文献2:木田元『反哲学史』(講談社学術文庫)
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