ソシュール言語学 - 趣味で学問

ソシュール言語学

言語学で最も有名な思想はソシュール言語学といってよいでしょう。その後の構造主義に大きな影響を与えたと言われています。しかしソシュールが生前に著書を発刊していないこと、受講生により編集された講義録がいくらか誤解を含んでいたことから、誤って解釈されていたり明らかにされていないことも少なくないようです。

このページは丸山圭三郎の二つの著作、『ソシュールの思想』と『言葉とは何か』を参照にしています。丸山圭三郎はソシュールの日本への最大の紹介者ですが、その著作の内容には彼自身の思想が反映されているようです。そのためここで紹介するのは「ソシュール(丸山圭三郎)の思想」と書いた方がよいかもしれません。ソシュール言語学の紹介の後、丸山圭三郎の「言分け」についても紹介しておきます。

1.概念定義

まずはソシュールの用いた概念の定義をしておきましょう。下に各概念の簡単な説明を示します。

  • ランガージュ:人間の持つ言語を使用できるようになる能力。
  • ラング:言語体系。英語や日本語などの各言語体。
  • パロール:具体的な言語使用の場。
  • シーニュ:言語記号。ことば。
  • シニフィアン:意味、記号するもの。たとえば「犬」という文字や音。
  • シニフィエ:意味、記号されるもの。「犬」という文字などで指したり生起される内容。
  • 連合の軸:どの言葉を選択するかという潜在的な関係。「私は海にいく」と言ったときの「海」以外に「川、山、林、里」など。
  • 連辞の軸:その文を構成する前後の言葉の関係。「私→は→海→に」のように言葉が連接していく関係。
  • 共時態:今その瞬間の言語体系。
  • 通時態:共時態の移り変わり。
  • デノテーション:辞書的に言語体系で定義されている意味。
  • コノテーション:各人ごとにに現れるその言葉の意味。

上の説明だけではわからないことも多いでしょうが、下で順に説明していきます。

2.大まかなまとめ

最初にこのページの大まかなまとめを書いてしまおうと思います。

ソシュールが活動を行っていた当時、各言葉の時代を通しての変遷を問う通時態の視点が主眼におかれていましたが、ソシュールはその時代の言葉と言葉の係わりを問う、共時態の視点が必要と考えました。ソシュールにとっては各言葉は他の言葉との差異によってそうであるような、ある種動的なものです。

ソシュールは共時態の視点で言語を考察するためにいくつかの言葉の定義を行っています。言語の使用全般に関わることに対し、ラング(言語体系)、ランガージュ(言語の使用能力)、パロール(言語の使用の場)として分類しました。さらにラングの中で最も重要な単位である言葉(シーニュ)に対し、シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)の区分を入れ、その関係や対応の成立について思索を深めます。

シニフィエは一見意味そのものであるように見えますが、世界との対応を持ちながらも主体の意識に現れ出るものです。その現れはすでに成立しているラングにより規定されますが、対話が成立する程度に各人で共通するとともに各人ごとに差異を含むものでもあります。人々の間で使用されること(パロール)を通して、人々の言葉の使用や認識を規定するはずのラングの方も変遷していきます。

ソシュールの思想は、そのような人々を規定しながらも人々の使用により変遷していく、動的なものとしての言語についての思索を含みます。それは子どもが言葉を獲得するときの場において何が起こっているのかといった、発達心理学的な視点をも含みます。残念ながらソシュール自らによってはまとまった体系として記述されることはなかったのですが、その後の現象学、言語学、心理学に大きな基盤を提供することになります。

3.差異としての言葉

言語はいくつもの要素で構成されていて、基本単位にあたるものを抽象できるか本当は定かではありません。そうはいっても議論の取っ掛かりになる単位を決めておかないと思索がはじまってくれないので、各言葉、とくに名詞を言語体系の基盤とみなすことが多いです。これは名詞が現実との対応関係が深いことからきていますが、一般に考えられているほど両者の結びつきは厳格なものではないです。

丸山圭三郎による具象名詞とその対象物との対応関係に関する議論を先に示しておこうと思います。ソシュールは「言語の中には差異しかない」旨の発言をしています。この差異をある言葉と他の言葉との差異において考えてみます。「犬」という言葉は野犬や山犬を含んでいたり狼が元になっていたりして、そういった言葉との関係で今あるように成立しています。丸山は図1上のように表現していて、たとえば狼という語が使われなくなったら、それまで狼の語で名指されていた対象は変わらないのに山犬とか犬と呼ばれることになるでしょう。狼という言葉はよく似た言葉である犬とか山犬とかとの関係において、それらとの差異として我々の前に現れています。言葉はそれそのものとしてある「実体」(哲学用語です)ではなく、隣接する言葉との間に保つ関係としてのみあり、これが「差異しかない」ということです。

4.ランガージュ、ラング、パロール

ランガージュは人間の言語を使用できるようになる潜在的な能力、言語使用に伴う抽象化、象徴化の能力のことで、ラングは個々の社会に共有される国語体のことです。たしかに人間はランガージュを持っているでしょう(具体的にランガージュとはどんなものかは置いておきます)。しかし言語獲得の生得的な能力があるとしても、その能力が発動されるのはすでに成立している社会の影響下においてです。我々はすでに多数の人々に共有され使用されている、個々のラング(日本語、英語など)を獲得することになります。もちろん言語を使用するのは個々の人間であり、個々の人間の言語を獲得し使用する場、そして実際に使用された言葉の連続を示す概念がパロールです。

我々の目にはラングがあたかも実体のように現れているように見えますが、実際にはその社会の人々に使用されることで、次々と世代を超えて個人が使用可能となる、コミュニケーションの中に現れる何かです。英語や日本語などは書物に言語規範としてラング(の一部をなすもの?)が書き留められることもあるのですが、口伝えで実際に使用されるのみで存在する場合もあります。いずれにせよパロールにおいてラングが顕在化するのであって、ラングを生み出したであろうパロールの集積がすでに存在するラングによって拘束されている、そんな循環的な関係がラングとパロールの間に存在しています。

5.構造

5.1 連接の軸と連合の軸

ソシュール言語学はその後の構造言語学の祖になったといわれています。ソシュールのいう構造は、全体の中での位置関係と、他の要素との相互関係との間で初めて意味が決定されるような体系のことを示しています。ここで言語現象の単位の一つである文に着目してみます。文の中の要素、代表的なものは単語ですが、これらは他の要素との差異・対立関係により初めて意味が決定されるようなものです。例えば「I saw a boy.」の文において、「saw」が「see」の過去形か「のこぎり」かは前後の単語との関係で決まり,ここではseeの過去形でしょう。ソシュールはこのような連接して相関する関係を連辞関係と呼んでいます。

一方,「saw」に「met」や「loved」のような動詞が代わり得るのですが、これらの語群は相互排除関係にあって現実の文には表れておらず、連想される関係として連合(連想)関係と呼ばれています。人が言語を扱うとき、単語などの諸項目から適切なものを選択し、前後の脈絡に従って結合していきます。選択と結合は同時的に行わなくてはならず、連合(選択)と連辞(結合)の軸は相互に影響を及ぼしながら一つの体系をなしています。

5.2 共時態と通時態

パロールに現れる構造とは別に、ラング全体として構造を見ることもできます。ある時点でのその言語全体の体系が共時態であり、共時態の移り変わりが通時態です。あるときの共時態において、語の役割は、類似し隣接する語群との間で相対的に決定されています。ある語の役割の移り変わりを見るにしても、ある共時態の中でのその語の役割と、次の時点での共時態の中での役割を考慮に入れて、その語の役割の変遷を見定めなければなりません。ソシュール以前の言語学が点と点を結ぶようなものだとすると、ソシュールの言語学は面から面への移り変わりを対象としているといえるでしょう。

6.シニフィアンとシニフィエ

ソシュールにとって、言葉は単に物を指し示す記号のようなものではなく、成立した言葉は使用者に概念や対象物の認識を可能にしてくれるものでもあります。この時点で、言葉の意味を名指された具体的対象物とみなすような言語理論とは相容れません。ソシュールは「言語記号(シーニュ)」を「意味されるもの(シニフィエ)」と「意味するもの(シニフィアン)」の二項で表していますが、これらは言語外現実やそれに紐付けられた物理音などと単純には考えることはできません。

確かにシーニュは、既に存在する世界を主体の側の作用で分節して表現したものです。そしてその人において一度ある言葉が成立すれば、かつての分節の仕方が繰り返し継起するでしょう。それぞれの言葉は社会生活の中で取得されるため、言葉の習得により、個人による世界の分節が社会の価値体系に束縛されることになります。しかし束縛するからといって個人差を抹消するわけではなく、対話が可能な程度に分節の仕方が共有される、そういった自由度をも言葉は含んでいます。

7.デノテーションとコノテーション

言葉の意味を定義するのは簡単なことではないですが、言葉を聞いたり読んだりするときの「わかった」という感じのするある感覚のことを意味という言葉で呼び表しているのは確かです。一方、言葉を自ら使用するとき、相手にわかってほしいことがらをその言葉に込めて使っています。そのときに言葉に込めた内容は、相手にわかってもらえることを期待する社会共有的なものであるとともに、個人がその都度使うものである限りその個人固有の内容を含むはずです。ソシュールは社会における最大公約数的意味であるデノテーションと、個人ごとの固有のばらつきをもったコノテーションを区別しています。デノテーションは辞書に書き留められているような意味であり、ラングに属するといえます。コノテーションの方は個人のその都度の使用において現れるので、パロールに属します。

個々の言葉のデノテーションとコノテーションは、一致するわけでも分離するわけでもないでしょう。パロールに属するコノテーションは、パロールを規定しているラングにより規定されていますが、この関係は一方通行のものではありません。ラングが変遷し続けていることは疑いのないことで、この変遷はパロールの集積によるものであり、個人にとっての意味であるコノテーションは、パロールを規定しているはずのラングをも変換する権能を持っていることになります。

8.言分け

丸山圭三郎は哲学者の市川浩が用いた「身分け」(身体に対応して世界が分節されていくこと)を利用して「言分け」の概念を導入しています。ここで子どもの言葉の獲得の場を考えてみましょう。

子どもが最初に獲得するのは、ある対象を含む一つの行為であると考えられています。たとえばある子どもがスプーンを指して「アップン」と言うようになったとき、その言葉が指しているのは「あーんと口を開けてパクっと食べること」です。「アップン」という言葉をその子が獲得したとき、その子にとってはある道具を使って食べることのできるものとそうでないものとして、世界の認識が分節されていることでしょう。このようにある言葉を獲得するということは、世界の主体への現れを分節することであり、一度世界が分節されればその認識を通して子どもの行動は変わっていくでしょう。そしてヘレン・ケラーが「water」の言葉を獲得後にどんどん新たな言葉を自らの主体性を持って獲得していったのと同じように、変化した子どもの行動はその子に新たな言葉の獲得を促すはずです。

こうなってくると言葉の獲得から新たな行動が現われそれが新たな言葉を導いて、という風にして、その子にとっての世界はより分節された世界へと変わっていくことでしょう。この事態を丸山は「言分け」の概念で言い表しています。

9.思考の伝達の道具であり規定するものでもある言語

言語は、自分の考えていることを他人に伝えることのできる、きわめて重要な道具であることは疑いありません。しかし言語と関係なしに伝えたい考えが存在するなんてこともありません。そのように考えることを言語が可能にしてくれているからです。人間は自然をそのままで描写することはできず、ラング(言語体系)という網の目を通すことで、自然をさまざまに分節し解釈しています。

一方でラングも人々の活動と無関係に存在するはずはありません。言語に関わる一切は人間が使用することにおいてのみ存在するのであり、人々の日々の活動によりラングも変節していきます。言語は我々を規定するものでありながら、我々の活動により規定されるものでもあります。この一種循環的な関係にある言語と我々の関係を照らし出してくれたのがソシュールです。彼の思想はその後のヨーロッパの思想界に多大な影響を残しますが、彼が問い続けた言語に関わる謎はいまだ解かれていません。

  • 参照文献1:丸山圭三郎『ソシュールの思想』(岩波書店)
  • 参照文献2:丸山圭三郎『言葉とは何か』(ちくま学芸文庫)

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むつきさっち

物理と数学が苦手な工学博士。 機械翻訳で博士を取ったので一応人工知能研究者。研究過程で蒐集した知識をまとめていきます。紹介するのはたぶんほとんど文系分野。 でも物理と数学も入門を書く予定。いつの日か。

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